topics & News to Home
霞山会とは
月刊『東亜』
講演会・シンポジウム
中国への研究留学
日本への研究留学
東亜学院中国語学校
東亜学院日本語学校
日中交流
霞山会館
交通案内
各種お申し込みForm

■中国マクロ経済分析
 慶應義塾大学駒形研究会

■霞山学生会
■リンク集
■サイトマップ
一般財団法人霞山会
東京都港区赤坂2-17-47
赤坂霞山ビル
TEL.03-5575-6301
FAX.03-5575-6306

アジアの一期一会

第9回 元・中国残留孤児の”義兄妹”に歓待された
2017-04-01. 小牟田 哲彦
 昭和の終わりから平成の初め頃までは、「中国残留日本人孤児が身元調査のため訪日」というニュースをテレビや新聞でしばしば見かけた。昭和56年に始まった集団訪日調査では身元判明率が7割以上の高さに至ったこともあったが、時の流れとともに肉親捜しは年々難化。平成20年に1名の身元が判明して以降、近年は訪日調査自体も対象者無しとなる年度が続いている。「中国残留日本人孤児」という言葉さえ、今の20代以下の若者には耳慣れないだろう。

170324as.jpg
瀋陽駅付近の通り沿いにあった「衆城招待所」(1996年撮影)。6年後には跡形もなかった。
 残留孤児はかつて満洲国が建国され、終戦間際のソ連軍の侵攻まで多数の日本人が暮らしていた今の中国東北部で多く発生した。中国に残された孤児たちは中国人の養父母の下で、多くは地元生まれの中国人たちと一緒に育てられた。だから、中国東北部には残留孤児を身近に知る中国人が残留孤児よりも多くいたし、今も多いと思われる。

 1990年代後半に、私もそういう成長体験を持つ中国人と旅行中に出会ったことがある。満洲国時代は奉天という名だった瀋陽市内で安宿を探していた私は、瀋陽駅の近くである招待所(廉価な簡易宿泊施設)を見つけた。ところが、中にいた中年の女性に「今は改装中だから泊まれないのよ。他の招待所を紹介するわ」と言われてしまい、やれやれと思いつつ、その場の椅子に座らせてもらった。すると、ほどなく私を日本人と理解した彼女は、ニコニコしながら私の瀋陽滞在予定などを聞いたうえで、「他の招待所を紹介する」はずが、「あなた、ここに泊めてあげる。お金はいらないわよ」と言い出して、改装中だという招待所の1室を本当に無料で1週間も私に使わせてくれたのである。しかも、食事は家族総出で作ってくれるし、私と同世代の親戚の若い男女も呼んで市内のダンスホール(当時は「迪斯科」(ディスコ)と言っていた)に連れて行ってくれたりと、まさに「歓待」だった。

 初めて会った見知らぬ日本人にどうしてこんなに親切にしてくれるのか、その理由を宿泊中の食事の席で話してくれた。彼女は子供の頃、中国残留日本人孤児と同じ家で兄妹として育てられたとのこと。だから「日本人は自分にとっては兄弟姉妹と同じ」なのだという。その兄は初期の訪日調査で早々に身元が判明して日本に永住帰国したそうで、彼女が自室の奥から出してきたたくさんの国際郵便の中には、彼が日本での生活をスタートさせた頃に上野動物園へ家族と出かけた様子を取材した日本の古い新聞記事のコピーが同封されていた。その手紙や写真の束を彼女はいったいどんな気持ちで見ているのか、私には想像もつかないが、自分自身が行ったこともない日本という外国に対して、彼女は他の中国人とは異なる特殊な好感を抱いていることは容易に感じ取れた。

 その後、私が旅行を終えて帰国した当初は手紙のやり取りをしていたが、やがてそれも途絶えた。それから6年後、再び瀋陽を訪れる機会を得た私は、わずかな自由時間を利用して、当時の写真を手に、おぼろげな記憶を頼りながらあの招待所を探しに行った。だが、かつて招待所が入居していた古ぼけたビルは跡形もなく、代わりに建っていたのは巨大な高級マンション群。あの招待所の親日一家がどこへ行ってしまったのか、もはや手掛かりはない。何枚か撮った写真と、私と彼ら家族とで1週間使い続けた筆談用ノートに記された大量の漢字の筆跡だけが、あの不思議な歓待の体験の記憶を今も甦らせてくれる。