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華北の「外国」建築をあるく

第22回 <番外編1>ベトナムのしたたかさ:フエの王宮の門
2016-11-29. 東福大輔
この連載では、中国に建つ外国人が関わった建築物をとおして、外国の建築様式を中国がどのように受容していったかを観察していっているが、逆に中国が外国に及ぼした影響というのも無視できない。かくいう日本も近世以前は中国のものを規範にし、それをモディファイしつづけてきた歴史があるが、より政治・文化の両面において中国の影響を強く受け続けてきた隣国がある。それはベトナムだ。

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フエ王宮:午門の外観、様々な行事が行われた、皇帝専用の門。
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フエ王宮:顕仁門の外観、通用門として使われた。
ベトナムは、古くから中国王朝による侵攻や統治を受けつづけてきた。最後の王朝である阮朝(グエンちょう)もまた、中国の清朝に対して朝貢をおこなう立場であった。だが、中国に対しては朝貢国の長をしめす「越南王」を名乗りつつも、一方で他の国や自国民に対しては「大南国大皇帝」を自称する、という「二枚舌」とも呼ぶべき統治を行っていた。そして、阮朝に関しては、建国時から植民地化を狙っているフランスとの関係も重要である。その頃のベトナムは、自国/中国/フランス、三ヶ国に対してバランスをとる「三枚舌」外交に腐心しつづけた国だったのである。阮朝の都はベトナム中部の都市、現在のフエにあった。フエは砲台が星型に突き出たフランス式の城壁(ヴォーバン式要塞とよばれる)に囲まれた都市で、さらにその中央に北京の紫禁城の縮小コピーといわれる王宮が置かれている。初代皇帝、嘉隆(ザーロン)帝が意図した都市全体の地図を見るだけでも、中国文化とフランス文化のミクスチュアを見るかのようだ。

王宮の建設は二代皇帝、明命(ミンマン)帝の治世まで続いた。王宮の入口にあたる午門は、工匠を北京にまで学ばせて作らせたもので、北京の紫禁城の午門の縮小コピーと言われている。手前に張り出した両翼部は確かに似ているが、門の上に乗る「五鳳楼」と呼ばれる建物は北京のものに比べて優美な印象を与えるし、中国南部で見られるような木材のディテールなどが異なり、工匠たちが南方の気候や材料に合わせてローカライズしたものと思われる。一番の違いは、テラス状に大きく吹き放たれた部分で、ここで科挙の合格発表や観閲式なども行われたという。いわば、北京の午門と天安門を合わせた機能を持たされていた建物といえるだろう。明命帝は、キリスト教を弾圧し、海外に対しては鎖国的な政策をとった皇帝で、この門のデザインは華夷秩序を取り戻そうとする意思の表れとみるべきである。

午門は皇帝専用の門として使われたが、その一方で通用門として使われたのが西にある顕仁門である。対外的な行事を行う午門に比べ、こちらは南国らしいキッチュなデザインとなっている。赤青黄の三原色に塗り分けられ、軒の上には皇帝のシンボルである龍がのたうち、ガラス製の花の装飾で埋め尽くされた門は、広東省など中国南部の過剰な装飾を思い起こさせる。政治的な顔である午門とは違う、いかんなく南国人気質が表現された門といえるだろう。

なお、最後の皇帝の保大(バオダイ)帝が退位を宣言したのは午門の上だった。日本がポツダム宣言による降伏文書に調印する3日前の事で、南北に分断した国はさらなる混乱に向かう事になる。