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ベトナム 生活図譜

第8回 ベトナムの日本橋
2017-10-19. 竹森紘臣
前回はハノイの紅河に架かる橋をベトナムの歴史に沿って紹介した。その中でもっとも古い橋は1902年に建設されたロンビエン橋で、最新の橋が日本の設計施工によるニャッタン橋だった。実はベトナムにはロンビエン橋より以前に日本人がおおいに関わった橋がある。その橋は来遠橋(Lai Vien Kieu)(写真1)とよばれ、ベトナム中部の街、ホイアンの中心部に流れる小さな川に架かっている。

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(写真1)来遠橋(ホイアン、ベトナム)
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(写真2)ホイアン夜景、テゥボン川より(ホイアン、ベトナム)
ホイアンは古くから残る街並みが美しく、1999年に街全体が世界文化遺産に指定されている。ランタンが有名で夜は幻想的な景色が浮かび上がる。(写真2)16世紀半ばには大航海時代の商業港のひとつとして、おおくの国の船が寄港していた。記録ではポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が居住していたとされる。1592年にはじめて朱印状が発行され日本からおおくの人々が東南アジアの各地に船でわたったが、その渡航先でもっとも多いがホイアンである。日本人がホイアンに移住すると日本人町が形成された。当時、川によって分断された中国人町と日本人町をつなぐために、1593年に来遠橋が日本人によってつくられたといわれている。そのため別名を日本橋(Cau Nhat Ban)という。幅3m、長さ18mほどで、石積みの橋脚に石のアーチが架けられた太鼓橋になっていて、その上に木造の建物が載せられている。この木造の建物の中には1653年にお寺が建てられたため、「寺橋(Chua Cau)」と呼ばれることもある。現在お寺に祀られているのは天気の神様といわれており、お寺というよりも実際は神社に近い。

16世紀末にはじまった日本人のホイアンへの移住だが、江戸幕府により鎖国政策が布かれたため、17世紀のはじめには日本から海外への渡航が禁止されてしまう。1000人あまりの日本人が住んでいた日本人町も次第に小さくなり、最終的には中国人町に飲み込まれてしまった。鎖国政策下でも日本人がそのままホイアンに住んでいたようで、町の近くの田圃の中に当時の日本人の墓が残されている。ちなみに来遠橋という名前は1719年に当時の領主によってつけられたもので、遠く日本に帰ってしまった日本人がまた来てくれる日を望んでいる、という意味といわれている。

日本人が去ったあとのホイアンは17世紀後半から、長く中国人、主に福建人の街として商業的な発展を遂げ、18世紀後半の農民運動の時代まで続いた。その後、ホイアンを流れる川の水位が下がったため大型の船が入れなくなり、主な港はダナンに移ったが、それでも商業センターとしての役割は残った。フランスの保護国となるころにはダナンにその役割も譲っていたが、そのおかげでホイアン市街の開発が進まず日本橋やその街並みが今に残ったとも考えられる。これらのホイアンの街の変遷の中で、日本橋は何度も改修や架替えが行われた。現在の橋の上の建物は、棟飾りが石の彫刻でできており、瓦の葺き方や軒の飾りをみても、当時の日本の建築様式のものというよりも、現代のベトナムの寺院でよくみられるものに近い。

1998年からは日本の文化庁や昭和女子大学の技術支援をうけて修復作業がおこなわれており、今日においても日本との関係は深い。

日本橋は完成から今までに至って、人々の日常の交通手段として使われてきたが、世界文化遺産に指定されたのち観光客が増え、一気に構造的な老朽化が進んでいる。2016年にベトナムと日本が協働で日本橋の大規模な修復を行うことが決まった。一度解体をして検証を行い組立てなおすとのことで、当時の日本人の生活やオリジナルのデザインにつながる発見がないか期待したい。
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ホイアン、ベトナム中部