1. 霞山会
  2. 霞山会とは
  3. 沿革
  4. 近衞篤麿と霞山人国記

近衞篤麿と霞山人国記

「近衞篤麿評伝」 嵯峨隆

近衞篤麿年表

西暦 和暦 年齢 出来事
1863年 文久三年 0才 篤麿誕生(6/26)
1867年 慶応三年 4才 妹泰子誕生(9/24)
1869年 明治二年 6才 家庭教師を聘して漢学の学習開始し、武技を錬磨
1870年 明治三年 7才 父忠房が東京へ移転(6/21)
1872年 明治五年 9才 銅駝小学校(京都)入学
弟英麿誕生(2/25)、弟鶴松誕生(3/15)
1873年 明治六年 10才 父忠房死去(7/15)
家督相続(9/15)
1877年 明治十年 14才 元服(1/11)
叙従五位(1/21)
宮内省出仕命ぜられる(5/3)
東京移転(7/25):12月には祖父も移転
1878年 明治十一年 15才 鮫島(武之助)英学塾入塾(3/21):鮫島塾寄宿舎に入る(12/2)
1879年 明治十二年 16才 共立学校入学(7/5)
大学予備門入学(9/18)
1880年 明治十三年 17才 病気を理由に大学予備門中退し、11月から近畿地方へ保養旅行
1881年 明治十四年 18才 旧家臣を集めて陽明親睦会設立(2/27)。東京へ帰る(8/8)
1882年 明治十五年 19才 家居独学。それまでの手記を纏めて『螢雪余聞』編纂開始
1883年 明治十六年 20才 海外留学の希望を上申
1884年 明治十七年 21才 公爵に列せられる(7/7)。オーストリア留学が決定(9/27)
1885年 明治十八年 22才 前田衍子と結婚(3/3)
叙従四位(4/1)
海外留学へ出発(4/18-)
ウィーン着(6/7) ⇒ ヒットルドルフの農家でドイツ語研鑽(7/2) ⇒ ベルリンへ(9/29) ⇒
ドイツ・リヒターフェルデのミュラー家塾で語学及び教養を学ぶ(10/15)
1886年 明治十九年 23才 ボンへ移転(7/8)
ミュンヘンで松村任三・橋本春と宗教論争(8/1)
ボン大学入学、政治・法律を専攻(10/22- その間、南ドイツや英国へ旅行)
1887年 明治二十年 24才 弟津軽英麿・常盤井鶴松、留学のためベルリン着(ボン大学入学 1/1)
弟二人とドイツ西部旅行(4月)
アルプス山脈踏破(8月)
1888年 明治二十一年 25才 ライプチヒ大学に転学(4/9)。スコットランド旅行(8月下旬)
1889年 明治二十二年 26才 叙正四位(6/26)
ドイツ各地・フランスのパリへ旅行(8月)
1890年 明治二十三年 27才 ライプチヒ大学で学位を授与される(6/28)
欧州より帰朝(9/12)。貴族院議員となる。貴族院の同志で三曜会を組織(懇話会の会員にもなる)
祖父、麹町七丁目の新営桜木邸に移る(12/3)
1891年 明治二十四年 28才 貴族院仮議長就任(1/13)
大津事件に際し、閣臣問責運動を展開。貴族院議員総代として上洛し、露国皇太子を慰問
郁文会会誌発行(論文「国務大臣責任論」を訳載 6月)
東邦協会副会長就任(7/7)
緩和会組織(7/17)
麹町区飯田町に移転(8/10)
長男文麿誕生(10/12):20日に衍子夫人逝去
三曜会にて民法人事編を研究
1892年 明治二十五年 29才 連署で旧堂上華族の家政援助を宮内省に申請(4月)
東京市参事会員に当選(5/12)
雑誌『精神』(のちに『明治評論』と改題)創刊
北海道巡遊(8月)
前夫人の妹前田貞子と再婚(11/21)
1893年 明治二十六年 30才 北海道調査完成の建議案を貴族院に提出(可決)
地租会議設置の建議案を貴族院に提出(可決)
『精神』号外として「慨世私言」出版(2/21)
北海道協会を設立し、会長に就任(3/24)
叙従三位(6/16)
1894年 明治二十七年 31才 論文「華族論」(1月)
衆議院解散に対する忠告書を伊藤首相に渡す(2月)
『精神』号外として「復書弁妄」発行(2/21)
遷都記念祭協賛会につき関西へ(4月)
北海道鉄道敷設及び港湾修築の建議案を貴族院に提出(可決 5月)
衆議院解散に関する政府の措置を非難し(非解散意見)、民党議員を応援(6月) 政務調査と両院議員の意思疎通のため甲午俱楽部結成
「執奏願書及奏議三条」を内奏(8/10)
臨時帝国議会及び遷都記念祭協賛会につき広島へ(10月)
1895年 明治二十八年 32才 『精神』に「海国の勃興に関する要務」発表(1月)
平安神宮の用向きで京都・奈良へ(3月)
学習院院長就任(3/19)
遷都記念祭協賛会・博覧会につき上洛。清国講和使李鴻章遭難に際し、これを慰問(4月)
『太陽』に「北海道拓殖論」掲載(7月)
『精神』に「独逸近時の外交政略」(8月)
平安神宮関係の用で上洛(10月)
『明治評論』に「朝党野党」掲載
清国賠償金の一部を小学校基本金にあてる建議案を貴族院に提出(可決 12月)
1896年 明治二十九年 33才 古社寺保存の建議案を貴族院に提出(否決 1月)
『精神』に「現内閣の所謂たる国家経営」(2月)
遷都記念祭協賛会につき上洛。『太陽』に「貴族院と伊藤内閣」掲載(4月)
陽明親睦会を陽明会に改称(5月)
学習院改革裁可(6月)
松方内閣入閣の勧誘を謝絶。『太陽』に「新内閣の将来をトす」発表(9月)
貴族院議長就任(10/3)
大日本教育会会長就任(11/28 後日、帝国教育会となる)
1897年 明治三十年 34才 長女武子誕生(2/27)
日本女子大学校創立委員となる(3月)
第三高等学校奨学金寄付(5月)
叙正三位(7月)
『明治評論』に「南窓漫筆」連載(7-9月)
条約実施研究会・民法研究会設置(8月)
古文書調査のため上洛(8月)
日本俱楽部組織(11/28)し、雑誌『中外時論』発行(この年から東本願寺に積極的に接近)
1898年 明治三十一年 35才 『太陽』に「同人種同盟 附支那問題研究の必要」発表(1月)
祖父逝去(3/18)
麹町桜木邸に移転(4月)し家政改革に従事
帝国教育会会長を辞任(5/1)
雑誌『時論』創刊(5/14)
同文会組織(6月)
大隅内閣入閣の勧誘を謝絶(6月)
海外視察の件決定(7/13)
京都滞在(8月)
東亜同文会を組織し、支那保全論を提唱(11/2)
山縣有朋と会見、入閣の勧誘を受けたが謝絶(11/6)
次男秀麿誕生(11/18)
東亜同文会機関紙『東亜時論』創刊(論文「帝国の位地と現代の政治家」掲載 12月)
1899年 明治三十二年 36才 清国留学生(張之洞の孫も含む)を学習院に入学させる
康有為の亡命を周旋(1月)
三曜会を解散し朝日俱楽部とする(2/3)
海外視察(4/1-11/25)
ホノルル ⇒ サンフランシスコ ⇒ ワシントン ⇒ ニューヨーク ⇒ ロンドン ⇒ パリ ⇒
ブリュッセル ⇒アムステルダム ⇒ ベルリン ⇒ ライプチヒ ⇒ フィンランド ⇒ モスクワ ⇒
オデッサ ⇒ ルーマニア ⇒トルコ ⇒ ローマ ⇒ ウィーン ⇒ マルセイユ ⇒ コロンボ ⇒
シンガポール ⇒ 西貢 ⇒ 香港 ⇒ マカオ ⇒ 広東 ⇒ 上海 ⇒ 南京<総督劉坤一と会見> ⇒
武昌<総督張之洞と会見> ⇒ 上海 ⇒ 蘇州 ⇒ 杭州 ⇒ 上海 ⇒ 東京)参内(12/1)
この年、東亜同文会支部を清国各地に設置、各府県に清国への留学生募集を依頼する
1900年 明治三十三年 37才 華族懲戒事件評議員委員長に任命される(2/13)
亜細亜協会を東亜同文会に併合(3/25)
南京同文書院開学(5/1)
ロシア皇帝贈与の神聖アンナ第一等勲章を受領(5/21)
憂国の士と時局を協議する(7/4)
北海道アイヌ教育界評議員となる(7月)
東亜同文会臨時大会で支那保全の重要性を決議(8/15)
三男直麿誕生(8/30)
山県首相に対外方策を披露(8/31)
大学教授を召集し、満州問題を討議(9/9)
国民同盟会を組織(9/24)
朝鮮公使趙乗式と会見し、日韓国防同盟の件について協議(8-10月)
加藤外相と会見、新内閣の対外方針を糾す(11/6)
貴族院に同志俱楽部を組織(11/20)
咽喉の切開手術(11/27)
国民同盟会岐阜大会を経て、京都・大津へ(12/10)
国民同盟会水戸大会へ(12/16)
国民同盟会中央大会を催す(12/20)
1901年 明治三十四年 38才 国民同盟会、露清密約反対決議(1/15)
国民同盟会が政社認定を受ける(1/22)
愛国婦人会結成に関与(2/6)
ロシアの密約破棄の後も国民同盟会はロシアの満州占領解除を要求(4月)
満州解放論を提起
雑誌『東洋』創刊(4月 「所謂満州問題」)
桂首相に国民同盟会の対清韓要務覚書を提示(6/7)
叙従二位(6/21)
「平和克服後に取るべき日本の方針」(7月)
清韓漫遊(7/12-9/4)
天津・北京の有力者を歴訪:山海関 ⇒ 営口 ⇒ 芝罘 ⇒ 旅順 ⇒ 仁川 ⇒ 京城(韓国皇帝に改称)⇒長崎
南京同文書院を東亜同文書院に改称(9/11)
城南荘を起こす(9/13)
「露清特約(特権保留の危害)」を順次掲載(11月)
信州旅行(11月)
清国高官に清国皇帝の北京還御を電報で促す(11/18)
日本新聞社買収(12月)
1902年 明治三十五年 39才 国民同盟会、満州問題に関する意見書を小村外相に提出。清国改革時宣教編を清国有力者に送る(1/9)
東京同文書院開校。国民同盟会、上海の米人協会・ニューヨークのアジア協会と協力関係に入る(1/19)
落合の新邸に移転(1/25)
新聞『日本』に「日英同盟の成立」掲載。日英同盟に関し、清国高官より感謝の電報を受け取る(2/16)
四月六日、京都府出身学生寄宿舎「集成館」の館長となる(4/6)
国民同盟会解散。新聞『日本』に「国民同盟会の解散について」掲載(4/27)
前橋の教育会へ(5/4)
高崎正風らと六国史校訂建議を宮内省に建白(7/10)
北海道視察(8/9-9/7)
四男忠麿誕生(8/27)
弘前同文会支部発会式へ(9/5)
馬車から転落、軽傷を負う。著者『北海道私見』刊行(10/25)
政府と衆議院の衝突の調停。忠告書を桂首相に渡す(12月)
大日本農会名誉会員に推薦(12/28)
1903年 明治三十六年 40才 胸部疼痛(1/12)、十五日には肺炎となり、臥床。
清国皇帝より頭等第三雙龍賓星を受領(3/9)
相州葉山に転地療養(3/10)
回復して帰京(4/14)
同志と南佐荘を起こす(3月中)
再度紛糾した満州問題解決のため、旧国民同盟会員・大学教授らと協議開始(4月)
咽喉部発病(6月)
叙勲三等瑞賓章(6/26)
対露同志会組織(8/9)
病原アクチオノミコーゼ菌発見(8/19)、以後数度の手術
大学附属病院入院(9/14)
韓国皇帝の勅書を受領(9/16)
貴族院議長退職(10/4)
宮中より派遣された侍医の診察を受ける(11/4)
枢密顧問官に任ぜられる(12/4)
退院(12/6)
同志を集めて桜田俱楽部結成(12/10)
叙勲二等旭日章(12/28)
病状、急速に悪化
1904年 明治三十七年 41才 逝去(1/2)

「霞山人国記」 栗田尚弥