霞山会とは
霞山会の歴史
霞山人国記

荒尾 精 「貿易富国と日清貿易研究所」
栗田 尚弥 2004/10/30(土)
 このたび、「霞山人国記」を新設いたしました。
 霞山会は今大きな転換期を迎えております。平成19年9月末には霞ヶ関に竣工する超高層ビルの最上階に霞山会館が装いを新たにして、開業いたします。 わたくしたちは、この3年間を新生「霞山会」の準備期間として位置付け、旧弊残滓を拭い去り、21世紀にふさわしい霞山会を構築するための貴重な時間と考えております。
新しく揺るぎない霞山会を築き上げるに当たっては、温故知新を忘れてはなりません。霞山会創設以来の先人達の姿に想いをはせ、ここにご紹介する次第です。

■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

 1896(明治29)年10月30日、一人の漢(おとこ)が卒然として逝った。
11月2日の近衞篤麿の日記はその死について次のように記している。「日清の間益々多事ならんとするに当りこの有為の人を失う。痛恨すべきなり」と。
 この約2年後近衞は東亜同文会を組織するが、そのメンバーにはこの漢の教え子や友人が多く名前を連ねていた。そして東亜同文会の発会決議には、この漢の意志を引き継ぐように「支那を保全す」という文字が盛り込まれていた。この漢、名前を荒尾精(1859?1896)という。
 荒尾精は1859(安政6)年尾張藩下級武士の長男として名古屋城下に生まれた。廃藩置県後家族とともに東京に出た荒尾は、当時の士族の子弟の多くがそうであったように軍人を志し、教導団を経て陸軍士官学校を卒業、1883年熊本の第13連隊に赴任し、1885年には東京の参謀本部支那部付となった。さらにその翌年、荒尾は参謀次長川上操六の命により情報収集のため渡清、当時東京銀座に本社があった貿易会社楽善堂の上海支店に岸田吟香を訪ねた。岸田は楽善堂の経営者としても有名であるが、明治を代表するジャーナリストであり、東亜同文会の創立メンバーでもある。
 岸田の知遇を得た荒尾は、その活動をカムフラージュするために楽善堂の支店という形で現在の武漢市の漢口地区に漢口楽善堂を開き、商業活動のかたわら情報の収集を図った。
 漢口楽善堂には、大陸へ飛翔する夢を持った青年たちが集い、中国の情報を収集し、さらには中国の有志と接触した。
これらの情報をもとに1889年帰国した荒尾は参謀本部に「復命書」を提出、そのなかで清末中国の末期的症状について説明し、中国の改革を助け、アジアの振興を図ることこそが日本の使命だと説いた。
 さらに荒尾は、「復命書」のなかで「貿易富国」ということを強調している。 これは、日中が互いに貿易を盛んに行なうことによって経済大国となり、欧米帝国主義に対抗するというものである。
 1890年、荒尾は軍籍を離脱、「貿易富国」を担う人材を育成するために上海に日清貿易研究所を設立した。日本近代史上、東亜同文書院の前身と位置づけられている学校兼研究所である。
 結局日清貿易研究所は、運営資金の枯渇により日清戦争の直前閉校するが、荒尾自身は日清戦争のさなか活発な言論活動を展開している。荒尾によれば日清戦争は義戦である。何故なら、この戦争により腐敗堕落した清朝が倒れ、開明的な人々による新たな中国が出現し、圧迫されていた民衆が解放されることになるからなのだ(「対清意見」)。
 日清戦争後、荒尾は日本政府の清国に対する領土割譲要求や賠償金の要求を厳しく批判する。日清戦争が義戦であった以上、いくら犠牲を払ったとはいえ領土割譲や賠償金は絶対に要求してはならないものなのだ(「対清弁妄」)。
 だが、日本は領土と賠償金を得て、新興帝国主義国家としての大きな一歩を踏み出す。皮肉なことに、荒尾がその最期の秋を迎えたのは、戦争の結果日本が得た新領土台湾であった。
 臨終に際し、荒尾は「あゝ東洋が…」と発したという。この言葉には一体どういう意味が込められていたのであろうか。

▲Page Top
一般財団法人霞山会 東京都港区赤坂2-17-47赤坂霞山ビル TEL.03-5575-6301
COPYRIGHT:THE KAZANKAI FOUNDATION, All rights reserved.