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霞山人国記

大内暢三 「苦難の時代の同文書院院長」
栗田 尚弥 2005/08/05(金)
 「霞山人国記」をご覧いただき、ありがとうございます。
霞山会は今大きな転換期を迎えております。平成19年9月末には霞ヶ関に竣工する超高層ビルの最上階に霞山会館が装いを新たにして、開業いたします。
 わたくしたちは、この2年間を新生「霞山会」の準備期間として位置付け、旧弊残滓を拭い去り、21世紀にふさわしい霞山会を構築するための貴重な時間と考えております。 新しく揺るぎない霞山会を築き上げるに当たっては、温故知新を忘れてはなりません。霞山会創設以来の先人達の姿に想いをはせ、ここにご紹介する次第です。

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 東亜同文書院大学初代学長(東亜同文書院第6代院長)大内暢三は、明治7(1874)年3月旧柳川藩士大内精一郎の長男として、福岡県八女郡白木村(現、立花町白木)に生まれた。
大内家は、文人戦国大名として有名な大内義隆の弟・義信を家祖とし、暢三はその11代目にあたる。
 大内の父・精一郎は、人望の厚い人物で、代白木村村長、福岡県会議員を歴任した。 橘陰館中学(旧柳川藩校)、熊本英学校に学んだ大内は、多分父の影響であろうか、政治家を志し上京、東京専門学校(現、早稲田大学)入学、英語学・政治学を専攻する。その後、明治27年7月コロンビア大学に入学、法律学修士の学位を修得後、ヨーロッパを視察、30年2月に帰国する。
 帰国後大内は、母校東京専門学校の教師となるが、間もなく運命的な出会いが彼を待っていた。
近衞篤麿との出会いである。 明治30年10月(頃)大内は高田早苗(後、早大総長)の紹介で近衞に面談した。この時大内は、留学時代の体験をもとに、欧米白色人種のレイシズム人種主義について敵意も露わに弁じ立てた。近衞もまた留学中に欧米の人種主義を体験していたが、「西洋人が人種競争をやつて黄色人種を圧迫してゐると君は考へて居るが、それは我々の文化が足らぬからである。文化の足らぬ為めにさう云ふ競争が起るのである。だから文化的に彼等に勝つ為には一層奮発しなければならぬ」と大内を諭した。これ以降、大内は近衞の側近の一人となり、近衞の活動を助けることになる。
 明治31年、近衞が同文会の設立に乗り出すと、大内もこの計画に参加、井出三郎、中西正樹、白岩龍平とともに近衞から「同文会の組織の事等に付き熟議し」、「同会の為に規約書起草の事」を命じられる。
 さらに同年11月、同文会と東亜会が合併し、近衞を会長とする東亜同文会が発足すると、大内も当然これに参加、以後同会の重鎮として会の運営に参与すること46年の長きに及んだ。
 明治41年5月、大内は第10回総選挙に尊敬する犬養毅の憲政本党から出馬・当選、代議士となった。爾来、昭和4(1929)年まで22年に及ぶ代議士生活を送った。その一方で近衞の志を継ぎ、外務省の対中国文化事業に深く関与するなど日中の友好親善に尽力した。昭和5年、大内は第17回総選挙に政友会出馬するが落選、政界を引退する。翌6年1月、東亜同文書院院長代理(院長は近衞文麿)に就任、同年12月正式に院長に就任した。
 大内院長時代、同文書院は長年の夢をついに実現、大学に昇格した(昭和14年)。 だが、この時代は書院にとってもっとも苦難の時代でもあった。昭和7年1月には上海事変が勃発、大内は非戦闘員たる学生の参戦を避けるため、全学生の内地引き上げを断行、12年11月には日中戦争のため書院校舎が兵火に焼かれた。
 この少し前、書院生はついに通訳として従軍することを余儀なくされた。戦場に赴く彼らを前に大内は、「軍事通訳に出動することは、日本軍のためだけでなく、むしろ中国民衆のためになる」と語った。
 日中提携という理想と日中戦争という現実の間で苦悩する大内の心の叫びであった。 昭和15年9月、大内暢三は東亜同文書院院長の職を辞した。その4年後の昭和19年12月、大内は卒然として東京五反田の自宅で逝った。71歳であった。

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