霞山会とは
霞山会の歴史
霞山人国記

山田 良政 「人道之犠牲、興亜之先覚」
栗田 尚弥 2006/9/22(金)
 東亜同文書院の前身は、明治33(1900)年5月南京に設立された南京同文書院である。だが、北清事変の戦火を避けるため設立後わずか3ヶ月にして上海に移転、翌34年書院は東亜同文書院として再スタートする。この南京から上海への移転の直前、一人の書院教授が職を辞し、孫文らの革命派に身を投じた。山田良政(1868-1900)である。
 山田良政は慶応4(明治元)年、津軽藩士山田浩蔵の長男として弘前に生まれた(幼名良吉)。次回紹介する山田純三郎は実弟である。山田家は津軽藩祖為信以来の家柄で、父浩蔵は維新後士族授産のため漆器授産会社を設立、津軽塗りを広めた人物である。
 明治21年、山田は郷里の青森師範を中退、明治言論界のビッグ・ネームとなりつつあった郷土の先輩陸実(羯南)を頼って上京、陸のすすめに従って22年第一期生として水産伝習所(現、東京海洋大学)に入学した。翌年伝習所を卒業した山田はやはり陸の意見に従い、北海道昆布会社に就職、上海支店勤務となる。山田と中国の関わりの始まりである。ちなみに、荒尾精、根津一が上海に日清貿易研究所を設立したのも同じ明治23年である。明治27年日清戦争が勃発すると、山田は昆布会社を辞し、その中国語と中国事情に関する知識を生かすべく陸軍通訳官として従軍する。
 戦争終結後も山田は復職しなかった。明治28年秋頃、山田は台湾に渡り、台湾総督府副官瀧川具和少佐(のち、少将)の知遇を得る。この瀧川との邂逅が山田の後半生を決定することになる。明治30年瀧川が駐北京日本大使館付駐在武官に就任すると、山田も北京に赴き海軍省嘱託として瀧川のもとに寄寓する。北京に赴く直前、山田は東京に宮崎滔天、平山周らを当然訪問、肝胆相照らす仲となっている。
 北京時代、山田は瀧川の依頼により種々の調査活動に従事、旅順においてロシア軍に拘束されるなど度々生命の危機にも直面している。だがなんと言っても、山田の北京時代のハイライトは、王照救出劇であろう。明治31年、康有為、梁啓超、王照ら変法派は、光緒帝を担いで日本の明治維新に倣った改革を断行した(戊戌変法)。しかし、間もなく西太后ら守旧派はクーデターを断行、光緒帝は軟禁され変法派に対する粛正が開始された。以前から変法派と交誼を結んでいた山田は、瀧川武官、平山周らとともに王照の救出を計画、見事日本海軍軍艦大島に王照を亡命させている。
 明治32年、一時帰国した山田は東京神田三崎町に寓居を据えた。間もなく、この寓居を一人の中国人が訪ねる。「中国革命の父」孫文である。山田と孫文とは初対面であったが、たちまち意気投合、山田は孫文の革命主義に共感を覚え援助を約束した。偶然かもしれないが、山田が東亜同文会に入会したのも同じ明治32年であった。やはり陸羯南の縁であろう。そして、翌33年山田は同文会幹事井手三郎の要請により、南京同文書院教授兼舎監として渡清、教務の傍ら孫文ら革命派や平山周ら革命派シンパとの連絡を密にする。同年夏書院の上海移転が決定的となる頃、山田は敢然職を辞し、上海において孫文、平山、内田良平らとともに、同地における清朝の代表である両江総督劉坤一を暗殺すべく協議に入った。しかし、孫文は失敗を懸念してこの計画を躊躇し、日本側シンパは孫文に対する失望の色を露わにした。だが、山田だけは「男児事を謀る中道にして廃すべからず」(平山周「山田良政君伝」竹内好編『アジア主義』)と語り、孫文を見捨てることはなかった。
 明治33年10月、台湾にあった孫文は、広東地方の革命派の中心人物鄭士良に電文で挙兵を指示した。同月8日鄭率いる革命軍は恵州郊外三洲田に挙兵、中国大陸に青天白日旗が颯爽と翻った(恵州起義)。当初革命軍は破竹の勢いで清軍を撃破、恵州城を包囲した。しかし、戦い利あらず、兵站の途を断たれた革命軍は守勢に転じ、香港に向かって退却を開始した。
 この時、山田良政の姿は退却軍のなかにあった。退却軍は、恵州東方三多祝において追撃軍と遭遇、激しい戦闘状態に入った。山田も最後まで頑強に抵抗したが、ついに清軍の捕虜となった。清側の尋問に対し、山田はあくまで中国人であると主張した。中国人であれば運命はただ一つであった。10月22日、山田は中国革命における最初の外国人殉難者となった。
 大正8年、弘前の山田家菩提寺貞昌寺に山田良政の碑が建てられた。そこには「山田良政君…嗚呼人道之犠牲、興亜之先覚也、身雖殞滅、而志不朽矣」と刻まれている。撰および書はもちろん孫文である。

▲Page Top
一般財団法人霞山会 東京都港区赤坂2-17-47赤坂霞山ビル TEL.03-5575-6301
COPYRIGHT:THE KAZANKAI FOUNDATION, All rights reserved.