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山田 純三郎 「死せる良政、いける純三郎を奔らす」
栗田 尚弥 2006/10/20(金)
 大正14(1925)年3月、「中国革命の父」孫文が北京で病死した。臨終の床には、孫文夫人宋慶齢、長男孫科など孫文の身内の他、戴天仇、汪兆銘、陳友仁等革命の時代を孫文とともに生きてきた人々が集まった。そのなかに、一人の日本人がいた。孫文革命最初の外国人犠牲者山田良政の実弟、純三郎(1876?1960)である。  山田純三郎は、明治9(1876)年兄良政と同じく青森県弘前に生まれた。兄弟には良政のほか、次兄晴彦と弟四郎がいる。
 純三郎の若き日々は波乱に満ちている。明治29年地元の東奥義塾を卒業した純三郎は、札幌農学校(現、北海道大学)への進学を希望するが果たせず、結局室蘭炭礦汽船の荷役夫・掃除夫となり、さらに次兄晴彦とともに上京、青森リンゴの販売にあたった。
 もし、良政という兄の存在がなかったならば、山田純三郎の一生は違ったものになっていたに相違ない。明治32年、純三郎は良政のすすめに従い、東亜同文会清国留学生試験を受験、見事合格し上海に渡った。そして、翌33年5月純三郎は設立早々の南京同文書院に入学する。前回触れたように、南京同文書院は間もなく上海に移転、当然のことながら書院生純三郎も上海に移った。この時、純三郎は兄良政に孫文を紹介されている。だが、この年10月良政は恵州起義に参加、還らぬ人となった。
 明治34年夏、南京同文書院は改めて東亜同文書院となった。書院の改編に際し純三郎は、書院院長根津一の配慮により書院の事務員兼助教授となり、教壇に立つことになった。しかし、37年日露戦争が勃発すると、純三郎は書院を辞し満州において通訳として従軍、郷土の先輩一戸兵衛旅団長のもとで働いた。38年、日露戦争終結。通訳従軍を終えた純三郎は一端帰国したが、明治40年1月教授として東亜同文書院に復職した。だが、復職わずかに4ヶ月にして再び辞職、新興国策企業南満州鉄道に入社した(?大正5年)。
 明治42年9月、純三郎は上海に派遣され、三井物産上海支店内に満鉄駐在員事務所を開設した。上海駐在員としての彼の仕事は、孫文ら革命派の支援係のようなものであった。たとえば、44年の辛亥革命勃発直後、純三郎は孫文の懐刀の一人陳其美の上海江南機器局奪取計画に荷担、有吉明上海総領事より拳銃3丁を借り受けている。また、同年孫文から革命資金の調達を依頼され、彼を三井物産上海支店長藤瀬政次郎に紹介している。
 このような純三郎に対する孫文の信頼は、兄良政との関係もあり厚いものがあった。明治45年1月孫文が中華民国臨時大総統に就任すると、純三郎は宮崎滔天らとともに就任式に陪席している。しかし、同年3月孫文は大総統を辞任し、替わって清朝の実力者の一人袁世凱がその地位に就いた。袁は革命派に対する圧力を強め、8月に結成された国民党も解散命令を受けることになる。北京を去った孫文は政権奪還をめざし、そののち10数年にわたり反袁、反軍閥(袁は大正5年に死亡)の活動を続け、第2革命、第3革命も勃発した。だが、純三郎が孫文を見捨てることはなかった。彼は兄良政に導かれるように、陰に陽に孫文を支援し続けたのである。その行動は、時として危険をともなうものであった。大正5年、上海の純三郎邸において、陳其美が袁世凱の刺客によって暗殺された。その時、純三郎の4歳の長女も巻き添えとなり、脳に一生の障害を負うことになった。
 大正13年11月純三郎は、孫文の求めに応じて孫文最後の来日に神戸から同道、そのまま北京まで同行し、当時北京政府トップの座にあった軍閥張作霖と孫文の会談の仲介役を務め、さらに吉田茂奉天総領事と孫文の会談を斡旋した。そして、これが純三郎が孫文のために行った最後の大仕事となった。
 孫文の死後、日本と中国の関係は急速に悪化していく。だが、純三郎は中国特に上海にあって日本と中国の架け橋たらんとしていた(『上海毎日新聞』社長等を歴任)。昭和12(1937)年日中戦争が勃発し戦況が泥沼化の一途をたどるなか、純三郎は孫文以来の国民党の政治家唐紹儀を引き出し、日中和平を実現しようと尽力した。また、日本政府による汪兆銘引き出し工作を「姑息ノ手段」として批判した。
 昭和51年、弘前貞昌寺の山田良政の記念碑とならんで山田純三郎の記念碑が建てられた。その碑銘と碑文は、かつて日本軍と戦った二人の将軍?蒋介石と何応欽?の手になるものである。

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