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【コラム】霞山人国記「近衞忠熙」 栗田尚弥
2021-12-21

近衞忠熙−幕末の動乱を生きた近衞篤麿の祖父−


明治31(1898)年3月18日、一人の老華族が世を去った。同月24日、葬儀は上野寛永寺で執り行われたが、自宅のある麹町から寛永寺までの「路上」は、「見物人山の如く」であった(『近衞篤麿日記』第2巻)。幕末の動乱期に朝廷内にあって公武合体派として重きをなし、その養女篤姫(天璋院)は、13代将軍徳川家定の妻として家定亡き後も徳川家を支え続けたことで知られているこの人物こそ、近衞篤麿の祖父であり養父でもあった近衞忠熙である。

近衞忠熙は、文化5年7月(1808年9月)、内大臣近衞基前(後に右大臣、左大臣を歴任)の長男として京都に生まれた。母は尾張藩主徳川宗睦の養女(高須藩主松平義当の娘)維姫である。周知の如く、近衞、九条、二条、一条、鷹司の5家は、藤原鎌足以来の藤原一門の頂点に立ち摂政・関白、太政大臣に就任できる家柄である(いわゆる五摂家)。わけても、近衞家は江戸初期の当主(第19代)信尋が後陽成天皇の第4子であり、以来皇別摂関家として五摂家のなかでも特別の地位にあった。

文政3(1820)年、父の死にともない近衞家の第27代当主となった忠熙は、同7(1824)年内大臣となり、弘化4(1847)年右大臣に昇任した。前出の篤姫が忠熙の養女となるのは、この9年後(安政3年)のことである。篤姫は、薩摩藩主島津家の分家、今和泉領主島津忠剛の娘として生まれ、第11代薩摩藩主島津斉彬の養女となり、さらに忠熙の養女となった。ちなみに、忠熙の妻興子(郁姫)は、薩摩第10代藩主斉興の養女(第9代藩主斉宣の娘)であり、長子忠房の妻光子(篤麿の母)も島津斉彬の養女である。近衞家と島津家(薩摩藩)は、忠熙の代に深い姻戚関係で結ばれたのである。

当時日本は、外圧の真っ只中にあった。嘉永6(1853)年、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、軍艦(黒船)4隻を率いて浦賀に来航し、武力を背景に開港を要求、翌嘉永6年幕府はやむなく日米和親条約を締結し、200年以上にわたる鎖国政策は崩れ去った。その後、米国は伊豆下田駐在の総領事ハリスを通じて幕府に通商条約の締結を迫ることになった。篤姫の最初の養父島津斉彬は、老中阿部正弘とも親しく、この未曾有の国難に対処すべく水戸藩主徳川斉昭、福井藩主松平慶永らとともに幕政の改革を唱え、さらに次期将軍(14代)として、英邁の誉れが高い一橋慶喜(斉昭の七男)を擁立すべく画策していた。篤姫を近衞家の養女としたのは、五摂家筆頭の近衞家の娘として13代将軍家定に嫁がせ、慶喜擁立工作を大奥からバックアップさせることにあった。そして忠熙は、慶喜擁立の内勅を得るべく宮廷工作を展開した。

安政3年11月、斉彬の計画通り篤姫は家定に嫁ぎ大奥に入った。翌安政4年1月近衞忠熙は左大臣に昇任する。しかし、この年4月大老に就任した井伊直弼は、無勅許で日米修好通商条約を締結、さらに6月、幕府は井伊の推す紀州藩主徳川慶福(後の家茂)を将軍継嗣に決定した。しかも翌7月、幕政改革派(一橋派)の核とも言うべき島津斉彬は病を得て急逝、幕政の実権は井伊ら南紀派が握ることになった。

このような状況下、忠熙は、一橋派の薩摩藩士日下部伊三次や水戸藩士の鵜飼吉左衛門らの働きかけに応じ、井伊に対抗すべく徳川斉昭に攘夷の勅諚が下るよう動いた。8月8日、計画通り水戸藩に勅諚が下賜され、さらに水戸藩から諸藩にこの勅諚が伝達されることになった。だが、幕府を飛び越えた勅諚下賜は、井伊の逆鱗に触れることになり、井伊は一橋派や無勅許調印に反対する尊皇攘夷派に対する大弾圧を開始する。世に言う安政の大獄である。この時、五摂家筆頭でありしかも皇別摂家の当主である忠熙は、さすがに極刑は免れたが、安政6年左大臣の職を追われ失脚、落飾謹慎することになった。

井伊が桜田門外の変(万延元[1860]年)で倒れた後の安政2(1862)年、忠熙は、復権・還俗し関白および内覧に就任するが、翌年この職を辞する。当時朝廷内では、過激な攘夷を唱える長州藩州と結んだ三条実美や三条西季知らが発言力を増しており、忠熙ら親薩摩派(公武合体派)は劣勢の立場にあった。翌安政3年8月、忠熙は、内大臣になっていた長子の忠房とともに公武合体派の薩摩藩、会津藩と結びクーデタを決行、長州藩と三条らを追放し(八・一八の政変)、朝廷内の主導権を奪還した。しかし、その後倒幕に向けての薩長同盟(慶応2[1866]年)が成立すると、やはり忠房とともに長州征討(第2次長州征討)を推進しようとする幕府と同藩を擁護する薩摩藩の仲介役を務めている。慶応3(1867)年11月12日、15代将軍徳川慶喜による大政奉還(10月14日)のほぼ1ヶ月後、忠熙は、左大臣に昇任した忠房、右大臣一条実良、前関白鷹司輔熙らとともに、「大政復古綱紀確立」に関して意見書を提出、「太政官八省以下再興」を説いている。

忠熙の政治的経歴はこここで終わる。明治2(1869)年の東京奠都後、公家のほとんどは東京に居を移し、明治3年6月忠房も東京に移駐した(後に伊勢神宮の祭主に就任)。しかし、明治天皇の度重なる要請にもかかわらず、忠熙は京都に残り孫の篤麿とともに、「悠々として山紫水明の地を楽しむ」(工藤武重『近衞篤麿公伝』)生活を続けた。だが、明治6年7月、忠房が父に先立ち没し、篤麿が近衞家の家督を継ぎ(同9月)、さらに明治10年5月侍従職に補せられ、7月東京の麹町区二番町に居を移すに及び、ついに重い腰を上げ、翌11年東京の篤麿の元に身を寄せることになった。工藤武重によれば、篤麿の任官は、「老公(忠熙)の東上を促さんとするの計に出で、廟堂縉神の進言に係る」(同書)ものであったという。

忠熙は、この麹町邸を終の棲家とさだめ、篤麿の成長と出世を楽しみに、風雅の道にいそしみ、90年の天寿を全うした。




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