特派員がカバーする取材範囲は本社の記者に比べ広く、多岐にわたる。バンコク支局の場合、東南アジア10か国を始め時には南西アジアさらに大きなニュースがあれば韓国など東アジアまで及ぶ。広範囲なだけではない。本社は政治部や社会部などに分かれ、さらに与党担当や警察担当など各部の中でも細分化され担当が付く。特派員は時にはスポーツまでカバーしなければならない。
現地雇用の記者や各国に散らばるストリンガーを頼りにするが、現地の商社や銀行それにメーカーの邦人駐在員も重要な存在だ。1988年、騒乱状態になった旧ビルマ政府は外国人記者に対し取材ビザの交付を禁止した。ビルマからタイに入った日系企業の駐在員から大規模なデモや軍の弾圧の話を聴いても自ら入国できない。夜、日本人が集まる歓楽街タニヤで企業の駐在員を接待し、酒注ぎながら協力を要請する。(写真) 特派員から突然営業マンへの変身だ。K商社には毎日旧ラングーンの事務所からテレックスが入電する。仕事の連絡以外にラングーン情勢も含まれている。企業秘密を除いた部分のテープを貰い受け、支局のテレックスにかける。「ラングーンは学生らのデモで埋め尽くされ、軍の発砲で死傷者が出ている。この事態を受け日本人学校は閉鎖された」。重要な情報だ。当時旧ビルマは緩い鎖国状態が続いていた。
一方、タイから国境の町を通して物資が旧ビルマ側に密輸されていた。密輸と言っても物資の欠乏していた旧ビルマは社会生活を維持するため事実上密輸を黙認していた。日本の食品会社に頼み密輸ルートに小型カメラを乗せ、タイの国境の町からラングーにいる現地カメラマンに届けてもらったこともあった。
97年、タイの通貨バーツの暴落をきっかけにアジア通貨危機が始まった。危機はマレーシアを除いて高度経済成長を謳歌していたはずの東南アジア全土に及んだ。日本を追い越す勢いでアジアに進出していた韓国の企業が突然引き揚げ始めた。東京から危機の起きた理由とどこまで波及するかレポートを要請されるが突然のことでさっぱりわからない。
日系銀行の駐在員に電話をかけて解説を聞きなんとかレポートを送ったとこもあった。日系企業の駐在員は頼りになるサポーターだ。思わぬ副産物もある。帰国後15年たった今も情報提供など協力していただいた当時の商社やメーカーそれに銀行員などの駐在員とバンコクに出かけゴルフを楽しんでいる。
写真:夜、日本人が集まる歓楽街タニヤ
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