盧溝橋事件勃発す
内閣成立後、近衞は懸案の諸政策に取りかかろうとしていた。しかし、その矢先の1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発した。日本政府に武力衝突の一報が入ったのは8日の午前零時頃だった。事件発生を聞いた近衞は、「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と述べたという。当時、陸軍があわよくば華北を第二の満洲国にしようとする計画があるとの噂が、内閣成立以前から消息通の間に伝えられており、このことが近衞の言葉となって現れたのである。
事件発生の時点では、軍は不拡大の方針を明らかにしていた。しかし9日の閣議では杉山陸相が現地の五千の兵士を救うために三個師団の派兵を要請し、この件を自分に委任するよう求めた。これに対して近衞は次のように述べて要求を斥けた。
「いま日本が大軍を支那に送ることは国際的に重大なことであるから、よほど考へなければならない。また内政的に見ても、今日さういふ問題で軍を動かすことに国民は必ずしも賛成しまい。ますます軍と離反するやうなことがあつては面白くない。だから自分は出兵には反対だ。従つて陸軍大臣にすべての責任を委すわけには行かん」(『西園寺公と政局』)。また、広田外相も軍部が不拡大・現地解決の方針であるなら不要だとして、派兵の件は保留となった。
しかし、7月11日の緊急閣議では現地で再び衝突が起きたことを理由に、陸軍大臣は再び派兵を求めてきた。これに対して、近衞は事態を拡大しないという条件で派兵に応じた。加えて、ここでは武力衝突が「北支事変」と命名された。そして同日夕刻、「北支派兵に関する政府声明」を発表した。
声明によれば、今回の事件は完全に中国側の「計画的武力抗日」である。しかし、華北の治安維持は日本および満洲国にとって極めて緊要であるため、政府としては重大な決意で華北出兵に踏み切った。日本としては東亜の平和維持は常に顧慮するところであって、今後とも不拡大の方針のために平和的交渉の希望は捨てず、中国側の速やかなる反省によて事態の円満な解決を希望するとした。
近衞は9日の閣議では派兵反対、11日になって賛成に転じたということになる。しかし、荒木貞夫によれば、9日には「近公強く一大打撃を与ふるにあり」という態度だったという(「続・荒木貞夫日記」)。いずれが真実を伝えているのかは判断できない。恐らく、近衞は事態の拡大を望んでいないが、派兵を決定すれば中国側は妥協するだろうから、事件は短期間で片がつくと考えていたものと推定される。同時に、近衞は陸軍の要求を容れない場合、陸軍大臣が辞職し、さらに陸軍が軍部大臣現役武官制を盾に後任大臣の選出を拒み、その結果内閣が瓦解することを恐れていた。近衞としては、不拡大を前提に陸軍に妥協せざるを得ない状況にあったのである。
声明を発表した後、風見章の発案で、近衞は貴衆両院代表、言論機関代表、財界代表を首相官邸に招いて、政府の決意を述べて協力を求めた。この後、新聞は一斉に筆を揃えて政府を強く支持し、競って強硬論を唱え人心を煽り立てることになる。その場を訪れた石射猪太郎は、官邸はお祭りのように賑わっており、政府自ら気勢を上げて事件拡大の方向へ滑り出しそうな気配を感じたと記している(『外交官の一生』)
7月12日、石原莞爾から風見に、近衞が自ら南京に行って蔣介石との直談判を勧める電話があった。これは、近衞あるいは広田を特使として南京に派遣すべしという参謀本部の方針を踏まえたものだった。翌日、風見は病床にある近衞を訪ね石原の電話の件を告げると、近衞は「若しよく目的を達し得べしとならば、貴下と共に南京に飛ぶを辞せず、今病臥すれども医師看護婦を同行せばよし」と述べた。しかし、風見は蔣介石の対日強硬派に対する統制力、および日本側の軍に対する統制力の問題から近衞の訪中は見合わせるべきと判断して、翌日近衞を訪ねて広田の派遣を提案し了承された(『風見章日記』)。
中国側の姿勢も強硬なものとなっていた。7月17日、蔣介石は廬山において次のような談話を発表した。「われわれは一個の弱国であっても、もし“最後の関頭”に到ったならば、全民族の生命をなげうってでも、国家の生存を求めるだけである」。「盧溝橋事件が中日戦争に拡大するか否かは、ひとえに日本政府の態度にかかっている。和平の希望が残されるかどうかは、ひとえに日本の軍隊の行動にかかっている」。しかしこの時点での蔣は、大戦は免れないとの認識を示すも、「不戦不和」「一面交渉、一面抵抗」の考えも持っていた。
7月20日以降、華北での戦闘が激化する中で、近衞は蔣介石のもとへ密使を送ることとした。秋山定輔の提案で、宮崎龍介を南京に派遣することになった。かつて蔣作賓が離日の際に、今後の連絡役として秋山と宮崎の名を挙げたことを近衞は覚えていたのである。しかし、宮崎は7月24日に神戸で憲兵隊にスパイ容疑で逮捕され、計画はあえなく失敗に終わった。宮崎のほか、西園寺公一や頭山満を特使に送る案もあったが、いずれも実現に至らなかった。
戦時体制への移行
7月28日、日本軍は華北で全面攻撃を開始し、翌29日には永定河以北の北平、天津地区をほぼ制圧した。こうした日本軍優勢の状況下において、天皇から近衞に向けて外交交渉によって解決を図ってはどうかとの意見があった。これが陸軍に伝えられて、柴山兼四郎軍務課長が石射を訪問して、中国側から停戦を言い出させる工夫はないかと尋ねるところとなった。石射は自分なりの方策を授け、それが船津工作となって現れることになる。
それでは中国側はどうであったか。29日、蔣介石は記者会見を開き、「今や最後の関頭に至った」との認識を示した。そして翌30日には、「刻下の時局においては局部的解決はもはや不可能である。(中略)我が国民は、この祖国の存亡の関頭に処し、必ず最後まで一致奮闘せねばならぬ」と述べ、徹底抗戦の姿勢を示していた。このような決意を固めた蔣介石との交渉は難航を予想させるに十分だった。果たして、8月に試みた船津工作は何の成果も上げることなく終わったのである。
日本の華北侵攻に対して、上海では抗日運動が激化したが、海軍軍令部はこれに対処すべく陸軍の増派を要請し、近衞内閣は8月13日の臨時閣議で二個師団派兵を決定した。そして、15日には「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為」、断乎たる措置を採るとする政府声明、いわゆる「暴支膺懲声明」を発表した。この声明は7月11日の声明よりも格段に強硬なもので、これによって交渉の気運も一挙に収束した。
17日、内閣は不拡大方針の放棄を決定するが、その閣議の席上で近衞は、自主自発的に行動し、順次戦時的体制に移すことが必要であると発言し、長期戦への移行を示唆した。9月2日、日中戦争の全面化を受けて、政府はそれまでの「北支事変」という呼称を「支那事変」に改めた。当時、一部には中国に正式に宣戦を布告すべきだとの声もあったが、軍需物資の禁輸を定めたアメリカの中立法の適用を避けたい軍部の強い意見があって、引き続き「事変」の名称が用いられた。
9月3日、第72回帝国議会が召集された。近衞は5日の施政演説で、日本はこれまで事態の不拡大と局地収拾に努めてきたが、ついにそれが不可能と考え、中国軍に一大打撃を与えるの止むなきに至ったとした。そして、日本軍の行動は東亜の平和を求めてのものであり、正義人道の上から見ても極めて当然のことであるため、中国がなおも反省せず執拗な抵抗を続けるならば、日本軍は長期戦をも辞さないと述べた。
議会では臨時資金調整法など、戦争遂行のために必要な資金と物資を確保するための法律が制定された。軍事費の財源の大部分は公債に依存していたため、戦時経済を維持していくためには公債購入や貯蓄などの強化が必要であり、それに向けて国民精神総動員運動が始められることになる。議会閉会日の9月9日、内閣告諭が発せられ、「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」の三大スローガンを掲げて運動が開始された。そして、11日には日比谷公会堂で国民精神総動員大演説会が開催され、ラジオで全国に中継された。
近衞は当日の「時局に処する国民の覚悟」と題した演説で以下のように述べた。東洋百年の大計として必要なことは、抗日勢力に鉄槌を加えてその戦意を失わせ、しかる後に健全分子に活路を与え、これと提携して東洋平和の恒久的組織を確立することである。そのことは、「全国民の全勢力を綜合蓄積し、国家の最高目的の前にこれを動員し、これを傾倒して始めて可能」となる。そして、今回の戦争のような「歴史的大事業」は国民それぞれが自覚を持ち、国家総動員の中に織り込まれるならば、国民が時代的使命を遂行し、日本に新紀元を作り出すことは決して困難なことではないとした。
近衞はその理由として、日本の国家的生命力が旺盛であることと、日本の行動の本質が世界の歴史の本流において真の国際正義を主張するものであることを挙げている。日本の主張は他の進歩的国民の理解を得られることは確実だと考えられたのである。そして、世界は今や一大転機にあるが、「この秋に当り東洋の道徳を経とし、西洋の文明を緯とし、両者を綜合調和して新しき世界に貢献することは実に我国に課せられたる重大使命で」あると結んだ。
この演説の原稿は、近衞の中国関係のブレインだった中山優が執筆したものであった。中山は一流の中国通として知られ、近衞とは中国観を同じくしていたため、執筆の依頼となったのである。当日、ラジオ放送を聞いた中山は、「(近衞は)温く澄んだ含みのある声で要所々々には力が入り、それが聴衆と呼吸があうと見えて、万雷の拍手が何回か起る。他人の書いた原稿とはどうしても思えないほど、それは公自身のものになりきつていた」と記している(中山「近衛家の悲劇」)。
これまで、近衞は日中戦争を抗日運動に対する自衛活動としていたが、この段階においてはこれを国際正義実現の試みとして位置づけ、こうした主張が国際的に理解を得られるだろうと考えるに至った。しかし、現実がそれと全く逆であったことは、当時アメリカ留学中の息子・文隆の手紙から窺うことができる。
文隆は1月の「わが政治外交の指標」を読んだ後に手紙を送り、「僕の考えとは大分違います」と述べており、10月7日付の手紙では次のように記している。「悲しいことに、こちらでは日本に対する同情というのが全然ありません。新聞記者に会って色々の話をしても、日本に有理(ママ)なことは一切書いてくれませんし、もし新聞記者が書いたら捨てられてしまうそうです。(中略)今誰が来てどんなに日本のことを弁解してもあまり効果はないような時期です」(『近衛家の太平洋戦争』)。
近衞は文隆からの手紙を通じて、アメリカの世論の厳しさを知ったはずである。しかし、総理である以上は簡単に政策を変えることなどできなかった。国民に忍耐を求めた以上は、戦争を続ける以外には道はなかったのである。