1964年(昭和39年)10月の東京五輪は戦後復興の象徴となり、その後の「開発型発展五輪」の先駆けとなった。東京五輪はアジアで初めての平和とスポーツの祭典だったが、アジアでその後開催されたソウル五輪(1988年)、北京五輪(2008年)もそれぞれ、韓国、中国が経済発展で成功を収めた時期に当たっており、国力の向上を国際社会に誇示する格好の機会となった。そのような流れの中で、50年近く前に開催された前回の東京五輪を位置づけると、開催が決まった数年前から高速道路や東海道新幹線などの建設が相次ぎ、敗戦からの国土復興に弾みがつくと同時に、東京が世界の先端的都市の仲間入りを果たしたことを多くの日本人に印象づけた。
この時期、つまり1960年代前半はちょうど、高度経済成長時代と重なる。東京五輪には世界の93か国・地域から5000人余りの参加選手が来日し、陸上、水泳、バレーボール、柔道、重量挙げ、レスリングなどの競技で熱戦が繰り広げられたが、当時は日本にテレビが本格的に普及した時期でもあり、多くの国民が世界のスポーツの祭典を身近に感じることができた。
また、参加各国選手団の役員を含め、これほど多くの世界の国々から多数の外国人が東京やその周辺に押し掛けた経験もなかったため、島国の日本が国際社会との交流を深めていく大きなきっかけともなった。東京五輪のとき、小学5年だった筆者は、自宅近くの国道を走る聖火ランナーに声援を送ったり、「東洋の魔女」といわれたバレーボール女子の日本チームが当時の強豪・ソ連チームとの大接戦の末に金メダルの栄誉に輝いたことなどを白黒テレビの実況中継を通じ、茶の間で応援したことを鮮明に覚えているが、それとともに忘れられないのが10月10日の東京・国立競技場での開会式の様子だ。
東京五輪開会式の10月10日はその後、日本で「体育の日」として祝日となったが、1964年の開会式当日は前日の大雨がうそのように一転して秋晴れとなり、青空に航空自衛隊の「ブルーインパルス」が鮮やかな五輪マークを描いたことを子供ながらに感動したものである。世界に5つの大きな大陸・地域(欧州、米州、アジア、アフリカ、大洋州)があることや、古代・近代のオリンピックの発祥地がギリシャであること、古代は戦争があってもそれを一時中止してオリンピックというスポーツの祭典を開く慣習だったことを初めて知った。また、子供にはあまり馴染みもなかった競技(近代五種、フェンシング、馬術など)も含む五輪競技を紹介する五輪記念切手が長い期間をかけて郵政省から発行され、これを機に小中学生の間で切手収集がブームになったりもした。広い世界には、たくさんの国があり、肌の色や体格の違うさまざまな人種がいることを体感できたのも東京五輪のおかげだった。
五輪のすばらしさは、マイナーな競技であっても、選手個人や団体チームが五輪で活躍し、メダルなどをとったりすると、競技人口が増え、スポーツの裾野が大きく広がることだ。例えば、東京五輪やその次のメキシコ五輪などを通じて、日本のバレーボールやサッカーの代表チームの活躍によって、中学生や高校生の間でこれらの競技を始める若者が増えた。このため、小中学生のころは野球少年だった子供が、サッカーなどの競技に鞍替えするケースが続出した。陸上競技は体格、体力の差などもあって、小柄の日本人選手にとってメダルは遠い存在だったが、42キロ強を走るマラソン競技ではメダリストが輩出したこともあり、長距離走、あるいはマラソンに挑戦する若者も増えていった。
この逆に、日本の伝統競技が五輪を通じて世界に知られ、国際的な競技になった例もある。東京五輪で初めて実施競技となった柔道である。柔道は今や、世界各国に広がり、外国人の競技人口も多い国際的なスポーツ「JUDO」となった。その分、礼儀や敗者に対する労わり、自身の人格形成など武道に通じる柔道本来の精神が少しずつ失われていくように思われるのは残念なことだ。(後編に続く)