関西の大学の大学院で毎年夏、メディア論のような講義を行っているが、講義・演習の最後に記者時代に出会って大きな感銘を受けた「国際人」3人を学生たちに紹介している。3人全員の紹介はここでは省かせていただくが、そのお一人が清川正二(きよかわ・まさじ)氏である。名前を聞いて、その人物の社会的業績などをすぐに答えられる人はある世代以上の方でないかと推測する。大学院の授業でも清川さんの名前を挙げて、人物像を知っていた学生はこれまでに誰もいない。
筆者ももちろん、清川さんにお会いするまで、業績などは全く知らなかったが、たまたま海外での取材で同氏と面識を得て、すごい経歴を知るにつれ、大変立派な日本人の大先輩という気持ちを強くしていったのである。初めて会ったのは、1987年にトルコのイスタンブールで開催された国際オリンピック委員会(IOC)理事会だったが、この理事会を最後にIOC副会長を勇退する清川さんが会議に出席されていた。
それまで、戦後生まれの筆者は清川さんが戦前のロサンゼルス五輪(1932年)での100メートル背泳ぎの金メダリストだとは全く存じ上げていなかったが、そんな経歴もあって、IOC委員、理事、副会長としてオリンピック活動に長く関わってこられたことを後に知った。また、清川さんは競泳選手を引退後は長く商社マンとして活躍され、総合商社の一角を占めた当時の兼松江商(現兼松)の社長まで務めている。
イスタンブールでの取材時はそのような輝かしい経歴は全く知らなかったのだが、理事会後の記者会見で、やはり戦後の冬季五輪での日本人初のメダリスト、猪谷千春氏がIOC理事に選出されたことが発表され、記者席の隣にたまたま座っていた清川さんに選出のいきさつなどを教えていただき、まずは完璧な原稿を東京本社の運動部に送ることができたのである。原稿は畑違いの運動部デスクに褒められたが、取材源は伝えなかった。
記者席にいた清川さんはIOC副会長という要職にあるVIPというよりも、今はその要職から離れ、オリンピック運動の行く末を見守るというような感慨を持たれて、記者会見の様子を見守っていたように思われる。隣席にいた運動取材の素人の筆者に、懇切丁寧に発表内容の背景を詳しく解説してくれたのも、正確な報道をしてもらいたいという思いがあったからではないかと推測する。
清川さんとの出会いは、それきりとなってしまったが、後年、日本経済新聞の朝刊文化欄に連載された「私の履歴書」でその生涯の歩みを詳しく知ることができた。ソウルとの競争に敗れた名古屋五輪の招致責任者など、清川さんの人生は波乱万丈だったが、アフリカの貧しい国マリの大阪名誉総領事の仕事をボランティアでされていることも知り、「清川さんらしいな」と感じ入った。そのマリがアルカイダ系のイスラム武装勢力の手に落ちそうになり、旧宗主国のフランスが軍事介入した。平和な時代に商社マンとしてマリに駐在した泉下の清川さんは、気にかけていたはずのマリの情勢をどう思っておられるだろうか。