新聞というと、日本では全国紙や地方紙が多くの人に読まれていることもあって、政治、経済、国際、社会、文化などお堅い記事が多いが、世界を見ると、芸能人などのスキャンダルやセクシーな記事を売り物にしたタブロイドの大衆紙も各国で健闘している。近代的な新聞の発祥の地とされる英国でも、高級紙と並んでタブロイド紙がよく読まれており、発行部数は後者が一桁多いという状況だ。
日本の新聞との比較でいうと、新聞がよく読まれているタイでは、事件・事故で犠牲になった犠牲者の遺体が写った写真が大きく掲載されていたり、手錠につながれた容疑者の会見の様子を写した写真もよく載っており、亡くなった人に対する尊厳は、あるいは容疑者の人権はどうなっているのかと考えこんでしまうことが多かった。日本の新聞では一般紙もタブロイド紙も、遺体が写っている写真は紙面に掲載しないのが不文律になっているが、世界を広く見渡すと、その例外は多い。
日本の報道機関で国際ニュースを担当するセクションには、世界各地で起きた爆弾テロといた事件や大事故の悲惨な写真が特約通信社を通じて多数配信されており、現場のカメラマンにとっては、事件・事故の悲惨さを強調したいという思いもあってか、自ら撮影する報道写真に犠牲者の遺体を取り込むケースは多い。筆者が以前、勤務先の外信部デスクを務めていた際には、中東で頻発した自爆テロや武力衝突に巻き込まれた犠牲者も写った現場の写真を毎日のように目にしていたが、そうした写真を契約社の報道機関向けに配信することはなかった。現場の一デスクが報道界の不文律を破るわけにはいかないのである。
しかし、タイの新聞では犠牲者の遺体が写った写真が大きく掲載される。その方が事件・事故の悲惨さや本質が読者に伝わると編集者が考えているからだろう。人権感覚が彼我とは違う面もある。さらに、刺激的な写真を掲載することで新聞が売れるということもあるかもしれない。
ベトナム戦争の被害を一貫してカメラマンの立場として報道してきた写真家の中村梧郎さんにインタビューした際、日本のメディアはいわゆる報道界の不文律に縛られるあまり、悲惨な現場を伝える写真を掲載しなくなり、真実が伝わりにくくなっていると現状を憂いておられた。中村さんは一昨年の東日本大震災後も、福島原発事故の被害に遭った福島県に入り、報道写真家の目を通じ、何枚もの写真を撮っている。津波の被災地などでは目を背けたくなるような現場も数々あったであろう。しかし、新聞社、通信社といった組織に属するカメラマンではない中村さんは、自らの信条に従って、目を背けたくなる現場も撮影したはずだ。
メディアの大きな役割の一つは真実を伝えることだが、報道写真の扱い一つをとっても、その方法論は難しい。