男性の意外な応答に身をただし、身分をうかがった。「私は上智大学で研究者をしている千原ともうします」と丁寧に身分を明かし、名刺を頂いた。恥ずかしいことに千原大五郎教授を存じ上げなかったが、話の内容からただならぬ専門家であることは察知できた。千原先生はベトナムの中部都市ダナンで開かれた「古都ホイアンに関する国際シンポジウム」に出席されたあとハノイ経由で帰国されるところだと言っていた。
あの出会いから3か月後、ジョグジャカルタのプラバナン遺跡を訪ねた。境内に入ってみると先生の教示通り、ラーマヤナ物語のあらましを描いた巨大な壁面彫刻が並んでいた。さっそく撮影し、ドキュメンタリーの一部に組み入れた。そして遅まきながら千原先生が東南アジア建築の第一人者であることを知った。以来、東南アジア建築について分からないことがあるとご自宅まで電話をかけさせていただくこともあった。先生は1997年に故人となられた。
3年ほど前再び奇跡が起きた。神田の古本屋で偶然にも「古都ホイアンに関する国際シンポジウム」の研究をまとめた書籍を見つけた。ベトナム機の中で千原先生に出会った時、先生が参加されていたシンポジウムだ。千原先生の論文も掲載されていて17世紀の日本人町の建築について報告されている。
論文によれば日本町が栄えたころの記録資料である「茶屋新六交趾貿易海図」を取り上げていた。京都の豪商茶屋家は当時長崎を出航してホイアンに向かっていた。当時のホイアンの日本町の建築は同じころの長崎の建築様式と同じであるという。ホイアンの町を歩くと中国様式の街並みばかりで日本の家屋の面影を残す建物はない。理由はふたつあって一つは江戸幕府が鎖国政策を執ったため日本人がいなくなってしまったこと。逆に中国では満州人の清の成立で漢民族がベトナムに流れ込み、ホイアンの中国人の人口が膨れ上がったことが影響している。ホイアンの日本人町に日本様式の建築物が消えたにもかかわらず資料から当時の家並の様子を解析されている。
また論文は同じインドシナでもインド化された地域の主流は高床式住居が多く、中国の影響の強いベトナムなどでは土間式住居様式が多いとしている。宗教や文化はベトナムとカンボジアの国境を境にインド文化と中国文化が分かれることは知っていたが、建築物でも分けられることは先生の論文で知った。再来したホイアンで千原先生との奇跡の出会いを思い出した。
写真1:ジョグジャカルタのプラバナン遺跡
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