〔34〕ヤマトホテルのレストランはどんなメニューだったのか 小牟田哲彦(作家)

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〔34〕ヤマトホテルのレストランはどんなメニューだったのか

第2次世界大戦の終結まで満洲の主要都市で営業していた満鉄(南満洲鉄道株式会社)直営のヤマトホテルは、欧米人向けの洋風宿泊施設としてだけでなく、地元住民が特別な日に訪れる高級レストランの側面を有していた。大連ヤマトホテルの屋上にルーフガーデンと称する屋外レストランが夏季限定で開設され、納涼目的の地元客が大勢利用していた、という話は本連載の第1回で紹介した。

では、ヤマトホテルの館内レストランで実際に提供されていた洋食とはいったいどんなものだったのか。私の手元にある奉天ヤマトホテルのある日のコースメニュー(画像参照)から紐解いてみよう。

奉天ヤマトホテルのコースメニュー

これはレストラン備え付けのものではなく、宿泊客ないし食事客に1枚ずつ配付されたものらしい。原寸は縦20センチ、横14センチで、「Today’s Specials」「本日の特別御料理」という題字と左右の花柄の模様はもともとの台紙に刷り込まれており、その内側に黒インクで印字されている日付や具体的なメニューは、日替わりで作成されていた。この献立表は英文の印字から昭和13年8月22日の特別メニューとわかるが、翌23日の献立表は全く別のコース料理が並んでいる。

最初の「豌豆製濁スープ」(「豌豆」はエンドウ)とは、英文で「Potage St.Germain」とあることから、フランス料理の定番であるグリーンピースのポタージュスープ(ポタージュ・サンジェルマン)とわかる。次の「比目魚(ヒラメ)フライ」は英文にのみトマトソース和えと付記されている。

3番目の「茹豚肉キヤベジ添」も英文からスペアリブとわかるが、付け合わせのキャベツはドイツ風の「Sauerkraut」(ザワークラウト。キャベツの塩漬け)だ。その次の「器入鶏肉煮込」は、欧文がなぜか英語ではなくフランス語で「Chicken en Casserole Fermière」と書かれている(Casseroleは「鍋」、Fermièreは「農家風」とでも訳すべきか?)。5番目の「串焼牛繊肉」は牛ヒレ肉の串焼き(Indian Kabobs)で、最後はデザートとして「アイスクリーム入りエクレア」が用意されている。

これ以外に和食一品料理なども用意されているようだが、現代よりも洋食がはるかに珍しかった当時、せっかくヤマトホテルのレストランに来たからには、この「特別御料理」を注文した客が多かったのではないかと想像する。奉天で少年時代を送った脚本家のジェームス三木は、月に1~2回、この奉天ヤマトホテルのレストランに連れていってもらうのが大きな楽しみだったという(喜多由浩『満洲文化物語―ユートピアを目指した日本人』集広舎、平成29年)。昭和13年の満洲の都市部には、市民がこうした外食を楽しめるだけの環境があり、日本内地からの旅行者の中には、自身の故郷よりもはるかに都会的な生活をこの満洲旅行で体験した者もいたのである。


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