近衞文麿は1916(大正5)年10月11日、父の後を継いで公爵となった。そして、この日をもって、貴族院令第3条により第38回帝国議会において貴族院議員に列せられた。彼は国会議員として、1918年の第40回議会では「旧韓国貨幣の処分に関する法律案特別委員会」の委員長となり、2月9日の貴族院本会議において同法案の審議経過を報告している。政治家としては順調な滑り出しだったと言えるだろう。
副島義一 ©Wikimedia Commons
近衞の議会以外での活動としては、1918年2月13日に華族会館で開かれた対支問題研究会への出席がある。同会は大木遠吉、寺尾亨、今井嘉幸らの主宰するもので、出席者には近衞のほかに杉田定一、戸水寛人、安達謙蔵、小川平吉、副島義一など百名以上に上った。いずれもかつて父・篤麿と関連があった人たちである。
同会の目的は、欧州大戦も終結に向かいつつある状況下で、「支那の紛争は支那自身の為めのみならず、日本帝国の為め引いては東洋永遠の為めに之をとらざるところ。支那問題の解決換言すれば日支両国の親善提携は益々必要を感ずる」るところである。そのため、「政党政派の別なく国民として公正なる輿論を喚起し、同問題の為めに活動を要す」ということにあった(『朝日新聞』1918年2月15日)。そして、当面は講演会の開催や、地方遊説などを行うことが計画されていた。同会がその後どのような活動をしたかは不明だが、近衞が政治家になった当初から、日中問題に積極的に関わっていこうとしていたことは確かだろう。
近衞篤麿 ©Wikimedia Commons
4月に入り近衞は内務省に就職した。本人は新渡戸稲造に相談に行き、後藤新平に口利きをしてもらった結果だったしている(『新渡戸先生』)。しかし、西園寺公望が内務次官の水野錬太郎に宛てた紹介の手紙が残っており、彼を経由して入省した可能性が高い(水野錬太郎宛西園寺公望書状、1918年4月11日、29日)。
しかし、近衞は内務省に入ったものの、文官試験を受けていなかったため、正式の官吏ではなく肩書は「雇」であった。そのため、規則正しく出勤して何かの事務を担当するというような勤務形態ではなかったという。近衞はその有り余った時間を活用して国際問題の研究に務めた。
その最初の成果が、1918年12月15日発行の『日本及日本人』に掲載された論文「英米本位の平和主義を排す」であった(現在、近衞『清談録』所収)。時に第一次世界大戦終了直後であり、同論文には当時の近衞の国際政治観が直接的に反映されている。近衞は論文の冒頭で次のように述べる。
「戦後の世界に民主主義人道主義の思想が益々旺盛となるべきはもはや否定すべからざる事実というべく、我国また世界の中に国する以上この思想の影響を免るる能わざるは当然の事理に属す」。「蓋し民主主義と云い人道主義と云い、その基づくところは実に人間の平等感にあり。これを国内的に見れば民権自由の論となり、これを国際的に見れば各国民平等の主張となる」。
然るに、「かくの如き平等感は人間道徳の永遠普遍なる根本原理」であるにもかかわらず、日本の論壇の中には欧米諸国の利己主義を洞察せず、日本人としての立場を忘れて「無条件無批判的に英米本位の国際連盟を謳歌し、却ってこれをもって正義人道に合すと考える」傾向にあることは誠に遺憾である。
そして近衞は、日本人本位の立場から国際情勢に対処すべきだと主張する。それは利己主義とは別物である。すなわち、日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対して不当な圧力が加えられた場合には、あくまでもこれと闘う覚悟が必要であり、場合によっては人道のためには平和を捨てざるを得ないとまで言うのである。この国民生存権の世界的平等を妨害しているのが、資本と天然資源を独占している英米であり、その除去が必要だとするのが近衞の主張の要点の1つである。この意味で、第一次世界大戦でのドイツの立場はある程度許容されるものであった。
当時、近衞の唱える国民生存権論に最も近い立場を表明していたのは、彼が京都帝大で学んでいた時の恩師の一人である戸田海市であった。中西寛の研究によれば、1919年に発表された論文「平和会議に於ける我国の主張」の中には、近衞の主張と極めて類似した点がいくつか見られるという。近衞は論文執筆の過程で、戸田と接触してその論文の趣旨を知っていた可能性が高い(中西。「近衞文麿『英米本位の平和主義を排す』論文の背景―普遍主義への対応―」)。
近衞の論文で今一つ特徴的なことは、黄白人種差別の撤廃が主張されていることである。近衞は次のように述べている。「かの合衆国を初め英国植民地たる豪州・加奈陀(カナダ)等が白人に対して門戸を開放しながら、日本人初め一般黄人を劣等視してこれを排斥しつつあるは今更事新しく喋々するまでもなく、我国民の夙に憤慨しつつある所なり。黄人と見れば凡ての職業に就くを妨害し、家屋耕地の貸付をなさざるのみならず、甚だしきはホテルに一夜の宿を求むるにも白人の保証人を要する所ありと云うに至りては、人道上由々しき問題にして、仮令黄人ならずとも、苟も正義の士の黙視すべからざる所なり」。
近衞のこうした主張はアジア主義に通じるものである。あるいはこの間に、対支問題研究会に参加した人々との接触の中で、彼らから思想的影響を受けたことも考えられる。しかし中西論文も指摘するように、近衞は反西洋主義というアジア主義の消極的側面は唱えながらも、アジアの連帯という積極的側面には説き及んでおらず、全体的にやや奥行きに欠けている感は否めない。
「英米本位の平和主義を排す」が発表された直後、近衞はパリ講和会議に派遣される西園寺の随員となることが発表される。会議開催はすでに10月に決定されており、日本からは西園寺が首席全権として派遣されることとなっていた。それを知った近衞は、「好機逸すべからず」との思いから随行を願い出ていたのである(「西園寺公と私」)。その意味で、上記論文は近衞が自らの存在を関係者に訴える意図をもって書いたものと言えるものである。
1919年1月14日、近衞は西園寺らとともにパリ講和会議への出席のため日本を出発した。かつて、若き日の篤麿を留学先のウィーンに伴った西園寺は、はからずも34年後に息子の文麿をパリに伴うことになったのである。まさに不思議な機縁であった。随員の中には近衞のほかに、西園寺八郎、三浦謹之助、松岡新一郎、秋月左都夫らがいた。
全権団一行が出発直前の1月4日、近衞の「英米本位の平和主義を排す」は国内の英字紙『ヘラルド・オブ・アジア』(The Herald of Asia)に英訳転載された。同紙発行人の頭本元貞は日本の国情を海外へ発信することに務めていた人物である。ところが、その1週間後、上海の親中国的立場に立つ週刊誌『ミラード・レビュー』(The Millard’s Review of Far East)は社説で近衞の所論を取り上げ、日本の全権団の随員の中にこのような主張をなす者がいることは注目すべきことだとして、その論旨に批判を加えていた。近衞の論文は彼らのアンテナに触れる価値を持っていたのである。孫文 ©Wikimedia Commons
会談が行われたのはおそらく21日のことだろう。近衞はフランス租界にある孫文の自宅に招かれ、夕食を共にしながら時事問題を語り合った。通訳は日本語に堪能な戴季陶が務めたと見られる。近衞が後に記したところによれば、「孫氏一度説いて東西民族覚醒の事に及ぶや、肩揚り頬熱し、深更に及んで談なお尽くるを知らず」だったという(「世界の現状を改造せよ」、『清談録』所収)。
会談において、孫文はイギリスは帝国主義であるがアメリカはそうではないので、近衞の主張もアメリカには理解されるだろうと述べたとされる(近衞「日支事変について」)。孫文はほぼ一貫してイギリス主敵論の立場にあったため、このように観測したのであろう。また、「東西民族覚醒の事」に及んだとあることからすれば、ロシア革命やアジア主義についても論じ合ったたことが推測される。会談の詳細は残されていないので、他にどのようなことが話されたか不明なのが残念である。
日本における近衞の評伝や研究では、孫文との出会いについて触れられることは多いのだが、なぜか孫文研究でこのことについて述べた例は見かけたことはない。孫文の多くの年譜でも近衞の名は現れていない。その理由が、近衞が後に日中戦争時期の宰相になる人物であるためなのか、そのあたりの事情は不明である。しかし、30歳にも満たない近衞の論文が、孫文に関心を惹かせたことは注目すべきことだと言ってよいだろう。
一行がパリに到着するのは3月2日のことである。(続く)