朱鎔基と李克強 ―― 二つの追悼文が映す中国首相の変質  安江伸夫(元テレビ朝日北京支局長)

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1957年東京都生まれ。元テレビ朝日北京支局長。1989年、北京留学中に天安門事件を経験する。冷戦終結、ソ連崩壊、鄧小平による市場経済化、インターネットの誕生――「豊かになれば中国も民主化し、米国のようになる」という期待が信じられた1990年代から現在まで、中国の変化を取材し続けている。現在もテレビ朝日の生放送帯番組の制作に携わる。関心領域は、世界の世論と日中世論のギャップ。著書に『アップデートされた「反日」の法則』(集広舎)がある。

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朱鎔基と李克強 ―― 二つの追悼文が映す中国首相の変質 

■朱鎔基の死去と李克強の急逝

朱鎔基元首相が2026年8月12日、97歳で病気療養の末、死去した。日本や米国のメディアでは、「朱鎔基時代の中国は分かりやすかった」「当時の中国には改革への期待があった」という論評が目立った。

その3年前、2023年10月27日には李克強元首相も68歳で心臓病のため急死している。二人はいずれも首相として中国経済の運営を担った人物である。しかし、中国政府が発表した公式追悼文を読み比べると、そこには単なる個人評価を超えた、中国政治の変化が浮かび上がる。

■追悼文に表れた共通点と相違点

二人に対する公式追悼文には共通点がある。いずれも同じ言葉で、「共産党の優秀な党員、傑出した革命家、卓越した指導者」と位置付けられた。

しかし、経歴をたどる部分に目を移すと、使われている動詞が異なる。朱鎔基には「主導(主持)」「確立(建立)」という言葉が並ぶ。朱鎔基は、旧体制の改革を「主導」し辣腕を振るい、制度を「確立」した人物として描かれている。市場経済化、財政・税制改革、金融制度改革、国有企業改革、世界貿易機関(WTO)加盟交渉を、抵抗勢力と闘いながら進めた指導者である。

これに対し、李克強の追悼文では、「主導」「確立」の語はない。代わって「推し動かす」を意味する「推動」、「推進」、「貫徹」、「計画を実行に移す」を意味する「落実」という表現が前面に出る。

朱鎔基の「追悼文」は、生涯を「革命の生涯、戦闘の生涯、輝かしい生涯」と評した。李克強については生涯を「革命の生涯、奮闘の生涯、輝かしい生涯」と記した。朱鎔基に用いられた「戦闘の生涯」はニュアンスの異なる「奮闘の生涯」に変わった。
この差は決して小さくない。この違いは、二人の政治的位置を端的に示している。

■「戦闘する首相」朱鎔基

朱鎔基は、市場経済化に踏み出したばかりの中国を、発展と豊かさへの入口へ導く過程で要職を担った。ただし、朱鎔基が改革を主導した時代は、日中関係が期待から摩擦へと転じた時代でもあった。

ここでいう「戦闘」とは、計画経済から市場経済へと移行する過程で、政府部門や官僚機構、国有企業の既得権益、地方政府の抵抗と向き合った政治闘争を指すと読める。

1989年6月4日の天安門事件の際、朱鎔基は上海市長だった。上海市で起きたデモや混乱を収束させるため、朱鎔基は二度にわたってテレビ演説を行った。

当時、北京での武力弾圧情報は逐一伝わり、上海への軍の進駐を避けようと激しい抵抗運動が起きた。事件後の6月8日に上海市民に呼び掛けた朱鎔基の語り口は、当時の中央政府の強硬姿勢とは異なる印象を与えた。

朱鎔基市長は「上海市は軍隊の使用を検討したことはない」と述べた上で、北京で起きたことについては「歴史の事実であり、誰も隠せない。真実はいずれ明らかになる」と、中央とは異なることを語った。一方で、海外から流入する情報については「デマ」として切り捨て、市民に冷静さを求めた。

体制側の幹部でありながら、軍の投入を避け、党が労働者を組織した警備組織「工人糾察隊」などを動員して秩序維持を図った対応は、朱鎔基の現実感覚を示すものだった。

朱鎔基の追悼文が「真実を語る勇気を持ち、怒りを買うことを恐れず」と評した人物像はこうした経験とも重なる。

この間、1988年から毎年、上海で旧正月を過ごしていた鄧小平の目に留まった。上海市では江沢民の後を受けて上海市党委員会の副書記から市長、トップの書記へと上り詰めた。副首相への昇格は1991年だが早くから次期首相と目されていた。

私が初めて朱鎔基を間近に見たのは、1994年2月、朱鎔基が副首相として訪日する際の、北京空港での記者会見だ。要人の出発会見の取材では1950年代にできた旧空港の滑走路エリアが使われていた。表情や身振りには独特の切れ味があり、周囲を緊張に走らせる鋼のような存在感があった。朱鎔基は、「両国関係を新しい段階に高めたい」と決意を語った。

当時の朱鎔基は副首相と中央銀行総裁を兼任し、経済金融政策の実務責任者でもあった。

中国は1992年10月の第14回党大会で、計画経済だった体制から離れ社会主義市場経済の建設を正式に掲げた。しかし制度の実態はまだ整っていなかった。行政命令を軸に動いてきた経済を、市場メカニズムにつなぐ制度転換は、混乱を伴った。朱鎔基は経済金融政策の実務責任者として、市場経済化の骨組みを作り、国有企業改革、外資の導入、上海の浦東地区開発、株式市場の整備、インフラ建設などを大胆に進め、WTO加盟交渉により中国を世界経済に組み込んでいくうえで、大きな役割を果たした。中国は日本に資金と技術支援を期待していた。

■朱鎔基訪日と日中関係の変化

1994年の訪日時、日本では自民党は野党だったが、朱鎔基は竹下登ら歴代総理大臣経験者らとも会談し、日本側への配慮を示した。その後、日本は浦東国際空港建設などに対中ODAとして円借款を供与し、第4次円借款全体で1兆円近い援助を進めていく。

米国も中国への関与を強めていた。1993年にはシアトルでAPEC初の首脳会議が開かれ、天安門事件後初の米中首脳会談を実現させた。いずれ豊かになり強国になる中国を国際秩序に組み込むことは、日米双方にとって重要な課題になっていた。

しかし、朱鎔基副首相訪日後の日中関係は、米中接近とは対照的に次第に摩擦を強めていく。背景には、冷戦後の国際秩序の再編、日中双方の世論の変化、中国の愛国主義教育、そして日本側の対中援助に対する考え方の揺らぎがあった。日本は、米中接近の進展をにらみながら、対中政策の再定義を迫られることになる。

■核実験、円借款、歴史認識

1994年に、江沢民政権は「愛国主義教育実施綱要」を発表し、学校教育やメディアを通じた愛国主義教育を強化した。各地では抗日戦争記念館などが「教育基地」として整備された。屈辱と抗日戦争の記憶は国民統合の重要な資源として位置づけられていった。歴史的な経緯から、中国における愛国主義と対日批判はしばしば隣接してきた。

朱鎔基の改革は、国有企業の赤字体質や既得権益に切り込み、大量の失業者も生んだ。国内改革の痛みが広がるなかで、対外的には強い主張が前面に出やすくなった。

中国は包括的核実験禁止条約(CTBT)の採択を前に、1992年から核実験を再開し継続した。被爆国である日本の世論は強く反発し、日本政府は1995年ごろから、円借款の一部凍結を示唆した。中国側は、円借款には、日中国交正常化時に中国が放棄した対日戦争賠償請求権の代替的意味があると反論した。そして中国政府は、民間人が日本側に戦後補償を求めて提訴するのを容認するようになった。中国側の論理は、国家発展と安全保障を最優先する実利的なものだったといえよう。一方、日本の対中支援には、戦争責任への意識と、経済協力を通じて中国を国際社会に安定的に組み込もうとする期待が重なっていた。この溝が、日本の対中感情のさらなる悪化につながった。

インターネットの普及は、日中双方の世論を直接結び付け、相手国への反発を市民レベルで増幅させた。内閣府の世論調査で中国に対して親しみを感じない人の割合が1995年以降親しみを感じる人を上回っていった。中国では、党機関紙が公式論評を出す前に、電子メールなどを通じて世論が反応し、政府が対応せざるを得ない場面も増えていった。

核実験はCTBT採択をめぐって1996年から停止されたが、代わって中国から盛んに発信され始めたのが日本の歴史認識に対する批判だ。

■江沢民訪日後の反中感情を和らげた

1998年11月、江沢民主席が国家元首として初めて国賓訪日した。中国側は日中共同宣言に日本の過去への謝罪の文言を明確に盛り込むように求めたが、実現しなかった。江沢民主席は宮中晩餐会をはじめ、各所で「歴史認識」に言及し、日本国内の反発を招いた。

こうした状況のなかで、朱鎔基首相は2000年10月に訪日した。TBSテレビの対談番組では、胡弓を奏でるなど穏やかな表情も見せた。放送では使われなかったが、事前収録で朱鎔基が「今回の訪日で(日本に)謝罪を求めていないことで自分は中国国内では「軟弱」だと批判されている」と率直に述べた発言は、新聞などでそのまま報じられた。朱鎔基の訪日は、江沢民主席訪日で高まった日本社会の反中感情を、一定程度、和らげたといえる。

米国との関係では2001年9月の9・11同時多発テロ後、米国が対テロ戦争で中国との協調を重視したことも追い風となり、同年末には中国のWTO加盟が実現した。朱鎔基は2003年に引退した。

■李克強――後継候補から実務型首相へ

李克強の追悼文で強調されたのは、「雇用・住宅・医療・介護」など国民生活に関わる政策実務での貢献だ。コロナ禍での経済安定、イノベーション主導の発展を目指す産業構造の高度化は、その延長線上にある。

李克強は、胡錦涛体制が二期目を迎えた2007年の第17回党大会までは、胡錦涛の後継者だと目されていた。しかし党大会直後発表の中央政治局常務委員の序列では、習近平が李克強を上回った。党内協議で、胡錦涛は、同じ共産主義青年団(共青団)系の李克強・遼寧省書記を押したが、党内の影響力が大きい江沢民は、同じ上海市党委員会のつながりで習近平・上海市党委員会書記を推薦したとニューヨーク・タイムズが報じた。以後、李克強は最高指導者候補ではなく、習近平を支える首相として位置づけられていく。

李克強は北京大学で学び、経済学博士号を取得した実務派でもあった。共産党のエリート育成組織、共産主義青年団で頭角を現し、ここで胡錦涛に見出される。李克強が遼寧省党委員会書記だった当時の2007年には、GDPの代替指標として、「電力消費量」「銀行融資残高」「鉄道貨物輸送量」を重視する考えを当時の米国駐中国大使に紹介したことから、この指数が西側で「李克強指数」と呼ばれるようになった。統計の信憑性に疑問を投げかけるような発言は、安定と統制を第一に考える中国政府において、必ずしも歓迎されるものではなかったはずである。

李克強は習近平政権において二期10年首相を務めた。習近平が国家安全、党の統制、軍事などの大方針を掌握し、李克強が経済運営や行政実務を担うという役割分担が見られた。公共事業に頼らず、民間の活力を引き出す李克強の経済構想は、欧米で期待され、「リーコノミクス」と呼ばれた。AIなど新しい技術に早くから注目し、2015年に中国の産業の高度化を図る政策「中国製造2025」を推進した。2016年には、深圳で新進実業家らと意見交換会を開いた。

だが習近平が2017年の第19回党大会で、米国式とは一線を引いた中国式の強国化を目指す方針を打ち出し、党による統制と国家主導を強めるにつれ、李克強の存在感は次第に薄くなった。

2018年の米中貿易摩擦では、李克強は交渉役から外された。李克強はこの間、日本との外交を進め、2018年5月に訪日し、10月には安倍晋三総理大臣が訪中し、李克強との間で、日本の対中ODAを終了させた。

2020年のコロナ禍では、李克強は記者会見で「中国には中低所得者が6億人おり、月収は1千元(当時は約1万5千円)前後だ」と述べ、成長の陰に低所得層が広く存在することを訴えた。

■時代が規定した二人の首相像

朱鎔基から李克強へと、中国の首相職は変化した。それは江沢民・胡錦涛時代から習近平時代への変化でもある。改革開放を進め、集団指導体制のもとで西側主導の国際秩序に接近していった時代から、習近平のもとに権力を集中させ、米国とは異なる体制のまま強国化を目指す時代への移行である。

朱鎔基は、計画経済の残滓を抱えた中国を市場経済に接続するため、官僚機構、国有企業、地方政府、既得権益と闘う「戦闘する首相」であった。改革を「主導」し、制度を「確立」する首相であった。

李克強もまた、経済運営に通じた政治家だった。しかし、彼が首相を務めた時代、中国政治の重心は中央政府である国務院から党へ、集団指導から習近平への権力集中へと移っていた。李克強は習近平体制の方針を「推進」し、「貫徹」し、「実行に移す」首相だった。

朱鎔基は改革の時代が必要とした首相であり、李克強は習近平時代に許容された首相であった。二人の追悼文の違いは、中国の首相が改革を切り開く主導者であった時代から、最高指導者の方針を実務として執行する時代へ移ったことを示している。

 

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