内閣交替への対応
平沼内閣は「日独伊三国同盟」を構想していたが、1939年8月22日に独ソ不可侵条約が締結され、「親独反ソ」という従来の外交路線が崩れたことで総辞職するに至った。内大臣の湯浅は木戸らと協議の上、後継首相に広田弘毅を推すこととした。しかし、当の広田は最適任者は近衞であるとして受諾しなかった。また、前・日本銀行総裁の池田成彬を推薦する意見もあったが、近衞はこれに反対の姿勢を示した。池田が親英的であるため、外交面で大転換になるというのが理由であった。
8月25日になると、陸軍内部から阿部信行大将を推す声が現れた。すると、今度は近衞も「阿部は可(よ)いと考える」として賛同し、大勢は阿部に定まった。30日、阿部内閣が成立したが、それに先立ち、阿部は近衞に引き続き無任所大臣として協力してくれるよう要請するも、平沼内閣の場合と事情が異なるのでその必要はないとして断っている。
阿部内閣は最初から弱体内閣と見られ、周囲から2ヵ月くらいしか持たないだろうと言われていた。近衞も「後のことも考えておけ」としきりに述べていたほどである。実際、阿部は11月には町田忠治民政党総裁の入閣を懇請するも拒絶され、武藤章軍務局長も12月11日に内閣に時局担当能力なしと公言するほどであった。翌年1月9日の閣議後、畑俊六陸相は議会解散反対・内閣総辞職・後任首相現役軍人反対を阿部首相に申し入れた。彼らが担ごうとしたのは国民的に人気のある近衞であった。しかし、近衞は動こうとはしなかった。
1940年1月14日、阿部内閣は総辞職する。その前日、近衞は阿部から退任の挨拶を受けた後、記者会見を行い首相就任を固辞する理由を次のように述べた。
「今次政変の性質に鑑み財政経済問題に関する知識も自信もないのに、政局担当はできない。社会を一定の方向に指導し得る政治的能力があり、またその自信のある人でないと、今後の政局は単なる人気や門地ではやって行けない。(中略)こういう条件の下で政局を担当することは、自分の良心が赦さない。戦場に臨む場合とは異り、勇気や決心だけで解決できる問題ではない」。
政治は人気や家柄だけでやって行けるものではない、とは近衞がしばしば述べるところであった。これに対して当時の新聞の論調は、「近衞は、自己保身のみあって国家あるを知らぬ」もので、無責任のそしりを免れないという非難が多かった。これに対して近衞の側近であった富田健治は、全国的な出馬要望の声の中で近衞が恬淡とした態度を貫いたことに、胸のすくような思いがしたと述べている(『敗戦日本の内側』)。
後継首班について、湯浅は米内光政を推す方針を固めており、近衞に同意を求めてきた。これに対して近衞は、今日の時局を担当するには、財務経済問題に見識がある者が必要であるため米内を推すことはできないとした。近衞が第一候補として挙げたのは池田であり、米内は第二候補であった。以前、平沼の後継を選ぶ際には外交姿勢の問題から不適格とした人物を、今度は財政側面を評価して推したのである。こうした矛盾する姿勢を採った理由は判然としない。しかし結局は、湯浅が推す米内光政が首班に指名され、1月16日に新内閣が成立することとなった。
近衞新体制への流れ
国際情勢を見れば、1939年9月1日には第二次世界大戦が勃発しており、翌40年4月にはドイツが電撃作戦によりまたたく間に西ヨーロッパを席巻し、6月14日にはパリが陥落した。こうした新たな状況に対して、日本では独伊両国との提携問題、そしてドイツに占領された諸国のアジアにおける植民地の帰属問題についての方針の決定が求められた。さらには、それに伴う国内体制の整備も必要となった。
新体制運動のきっかけとなったのは、1940年2月2日の衆議院本会議で斎藤隆夫が行った陸軍批判の演説であった。斎藤はここで日中戦争について、政府が「聖戦」という美名に隠れて国民に多大な犠牲を強いるばかりで、戦争終結の見通しも立っていないと批判した。この演説に対しては陸軍から強い反発が生じ、斎藤は3月7日に衆議院から除名された。これを契機に、各政党の有志議員が「聖戦貫徹議員連盟」を結成し、既成政党の解消と一大強力政党の結成を主張することとなった。
新党運動は第一次近衛内閣の当時、近衞周辺の人々から発案されたものであることは前章で述べたところである。その時は近衞の心変わりもあって停滞していたが、ここに至って再び息を吹き返すこととなった。近衞周辺の人々による運動は5月に入ってから表面化することになるが、近衞本人もまた新党への関心を高めていた。彼は後年の手記『失はれし政治』で次のように記している。
「既存政党とは異つた国民組織、全国民の間に根を張つた組織とそれの持つ政治力を背景とした政府が成立して、始めて軍部を抑へ日支事変を解決することが出来るとの結論に達し、これが組織化について研究することが余が第一次内閣総辞職後に際して心に持つた大きな希望であつたし、第二次内閣組織の中心的希望であつた。ところが期せずして昭和十五年の春辺りから国民組織といふ声が出て来、それがいはゆる新体制運動となつた」。
5月26日、近衞は有馬頼寧、木戸幸一と会談し、新党樹立についての申し合わせを行った。その内容は、近衞が政権の座についた後に新党運動を開始するとし、その際には陸海軍参謀総長、首相、陸海軍大臣による最高国防会議を設置し、各政党には解党を要求すること、内閣は首相と陸海軍大臣で組織し、新党成立後に党員から閣僚を採用することなどであった(『木戸日記』)。
また、第一次内閣で書記官長だった風見章は、5月下旬に衆議院議員の太田正孝とともに3ヵ条からなる新党綱領を作成している。それは、①高度国防国家の建設、②外交の刷新伸長、③政治新体制の樹立というものであった。6月4日、風間は有馬頼寧とともに運動の進捗状況を報告するために近衞を訪ねたが、これがマスコミの知るところとなり、俄に格好の新聞種となるに至った。そこで近衞は同日夜に記者会見を行い、新党問題を語ることとなった(「既存政党合体のみで新体制たりえず」、『東京朝日新聞』1940年6月5日)。
それによれば、「新しい政治体制によつて強力な新党を結成してこの重大なる時局に対処しなければこの難局は打開出来ない」としつつも、既存政党が解党して合同するだけでは国民を欺くものであるため、「少なくとも新政治体制としては国民全部に呼掛け、旧政党にも呼掛けてその組織、思想も今までの立場にとらはれないで時代の要求にピッタリ合つて行かなければいけない」ので、それまでにはまだ時間がかかるだろうとされた。そして、自身が新党に参加するには枢密院議長の辞職が許可されることが条件だとしている。当日、有馬は日記に、近衞の意思も大体定まったように思われたと書いており、彼の発言は実質的な新党参加表明と受け取られるものであった。
6月18日、京都滞在中の近衞は枢密院議長辞任の意を明らかにするとともに、新体制構想を口述した次のような原稿を残している。「新体制を実現すべき具体的方策、構成、組織、機関、運営等については、なお攻究の要があるが、挙国体制の確立そのものの必要は言うまでもないことであるから、国家の飛躍的発展の使命を認識し、それの達成を希求する国民の一人として、そのための新体制確立運動には敢て微力を致し、よりよき機構組織の成果を庶幾し、成立の暁には、その一分子として参加しようと思うのである」(矢部貞治『近衞文麿』)。ただし、この原稿は発表された形跡はない。
近衞の枢密院議長辞任は6月24日に実現し、同日、以下のような声明を発表した。「内外未曾有の変局に対処するため強力なる挙国政治体制を確立するの必要は何人も認めるところである。自分は今回枢密院議長を拝辞し斯くの如き新体制の確立の為に微力をさゝげ度いと思ふ。最近頓に活溌になつた所謂新党運動もこの新体制確立と云ふ意味ならば誠に結構である。然し単なる既成政党の離合集散や眼前の政権のみを目標とする如き策動であるならば、自分はこれと事を共にすることは出来ぬ。挙国体制の具体的内容又之を具現すべき方策等については各方面の意見を聴き慎重なる考究を遂げた上これが実現に努力しようと思ふ」(「強力挙国体制確立に」、『東京朝日新聞』1940年6月25日)。
ところで、近衞は以前に「新党運動」という言葉は従来の行き掛りから、世間からは政権亡者の動きと受け取られかねないため、「新党」という言葉を開けたいと述べていた。そこで富田からは、それに代わるものとして「新体制」という言葉が提案されていた経緯がある(『近衞内閣』)。近衞が求めた新体制とは「強力な挙国政治体制」であって、単なる新党運動ではなかった。その意味では、6月4日の記者会見での「新党」発言が「不注意発言」であったとする指摘は正しい(古川隆久『近衞文麿』)。ともあれ、ここをもって新体制運動は本格的に始動したのである。
新体制の具体的構想は軽井沢の別荘で練られた。7月7日、近衞は滞在先の軽井沢に東京帝国大学法学部教授の矢部貞治を招き、新体制の具体的立案をするように求めた。近衞の依頼の趣旨は次のようなものであった。「自分は支那事変の解決という問題について非常な責任を感じている」、「それがためには陸軍の意思を統一ということのみならず、その陸軍を圧倒するような一つの政治勢力、国民の基盤に立ったところの国民的輿論を背景にした圧倒的な政治勢力」の結集をやりたい。しかし、一国一党の幕府的存在では困る(『諸家追憶談』)。
これを聞いた矢部は困惑したが、彼が提言したのは「職能的国民組織」を基礎として、国策と国民生活とを結びつける国民運動という形態のものであった。矢部は近衞に以下のように述べたという。
「経済団体や文化団体の職能的国民組織を基礎とし、国民の各職域における活動を政治に結びつけ、国策の樹立に内面から加わるとともに、樹立された国策を国民生活の中に浸透させる様な組織によつて、国民を政治に直結し、それによつて一方では国民生活の実情から遊離している官僚統制の弊害を改め、他方では政党の無力化によつて、政治が国民との結合関係を失つている状態を補い、その様な職能団体組織と既存の諸政党の中から、優秀な人物を集めて中核体とし、挙国的な国民運動を展開したらどうか」(『近衞文麿』)。
矢部の提言は近衞の基本方針に合致し採用されることになる。そして、これが後に結成される大政翼賛会に受け継がれることになるのである。