第16回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆
再起に向けての助走(1)
無任所大臣となる
近衞文麿内閣の総辞職により、天皇の下問を受けた内大臣・湯浅倉平は平沼騏一郎を後任に奏薦した。1939年1月5日、平沼内閣が成立するが、これに際して平沼は近衞に枢密院議長と無任所国務大臣に就任するよう要請した。近衞は初め国務大臣については断ったが、説得を受けて結局両方とも受諾し入閣することとなった。
前内閣の突然の総辞職、そしてその後の近衞の姿勢に対しては批判の声が上がった。第74回帝国議会が始まると、1月22日の衆議院本会議において、政友会の安藤正純は近衞の辞職を「国民の常識から考へればどうしても去るべき時とは考へられない」と述べ、しかも前首相が「辞職の翌日、直ちに新内閣の無任所大臣として、国政扶翼の責任に当るに至つては、国民は益々奇異の感に打たれざるを得ない」と批判した。
批判されると辞意を漏らすのが近衞の常であり、この時も関係者に大臣を辞めたいと述べている。しかし、周囲では出処進退は慎重にすべきだとの意見が多く、平沼首相の求めもあって衆議院で所見を表明することとなった。そこで、近衞は1月28日の本会議において、前年末の辞職は「支那事変」の新段階に際しては、新内閣が組織されて人心を一新し、政治の運用を円滑化する上で必要であるとの考えに基づいてのものであったと釈明した。
そして、国務大臣に就任したことについては次のように述べている。「対支方針が内閣の更迭に依りて変動し、若くは動揺するが如き事なきことを中外に示す為の、政治的必要に出でたものであると承つて居ります、私は今日の事態に於きましては首相の御考も御尤であり、敢て拝辞することは適当でないと考へまして、御引受をした次第であります」。極めて形式的な答弁であったが、これによって事は一応落着した。
無任所国務大臣の地位は全くの閑職であった。それもあってか、2月に入ると、周囲からは近衞を海外に派遣しようとする動きが見られた。原田日記の2月4日の条には、「近衞の外遊はどうか。もしどうせ外国に行くんなら、結局やはり外国の第一流の連中と旧交を温めるなり、また新しく交はるなり、さういふ連中を相手にしてもらはなければ行つたかひがない」という西園寺の発言が記されている。
同じ時期に、平沼は近衞を満洲に派遣したいとの考えを持っていた。それがどういう意図を持ってのものかは不明である。しかし、これを聞いた近衞は、自身が枢密院議長の地位にあるため、満洲では先方から様々なことを期待をされる可能性があることから、行くことを差し控えたいと述べている。
また外遊を勧める西園寺にしても、その目的は上記の発言のように、外国の上流社会に知己を作ることこあり、実際的な活動を求めてのものではなかった。それは「将来近衞が御奉公する場合に、やはり一人でも多く立派な知己を外国、殊に欧米にもつことが必要だ」という観点からのものだった(『西園寺公と政局』)。近衞は入閣したとはいえ、現在は次の政権に向けての準備期間だと西園寺は考えていたのである。
7月7日、近衞は日比谷公会堂で開かれた支那事変二周年記念講演会で、「東亜新秩序創造の責務」と題する講演を行った。近衞はここで、過去2年間の「皇軍の戦果」を強調した上で、この日中の戦いは「東洋の内乱」と言うべきもので、中国に対する日本の態度は一般の交戦国の心理を超越したものであるとする。そして、日本は新秩序を創造する責務を有するがゆえに、中国国民に協力を呼びかけると同時に、「ヨーロッパにおける進歩主義の諸勢力」たる独伊のファシズム陣営と協力して、世界新秩序の建設に向かわなければならないとした。
さらに近衞は、日本が国際的使命を遂行するに当っては、国民の思想を一にして、政治・経済の諸機構を整備し、時代の戦士たるに相応しい情熱をもってしなければならないとした。そして彼は次のように言う。「国家なきところに個人はない」、「一国家一国民の生活を指導し決定するものは一国の政治である」、「政治は思想によつて導かれ、思想は信念において結晶するものであ」り、信念は「身を殺して仁をなすの対象あるによつて始めて結晶を見る」。その対象とは、「わが崇厳なる国体」すなわち天皇制であった。近衞においては、個人は天皇の前にすべてをなげうつことによって存在を認められるものであった。この講演は、近衞が自らをファシストであると宣言したに等しいものであった。
正確な執筆時期は確定できないが、近衞が対中国政策を論じたものに「日支関係の歴史(明治以降)と大東亜新秩序の理念」がある。その内容は、前年11月に提示された東亜新秩序構想を敷衍し正当化したものであるが、満洲事変以前の日本の大陸進出を「東亜に於ける同文同種の兄弟国に対する道義感と矛盾するもの」であったことを認めている点は興味深い。ここからは、満州事変以後の日本の大陸進出は、東亜諸国の支持を得られるはずのものだとの考えが窺い取れる。
汪兆銘への対応
ハノイで第三次近衛声明に接した汪兆銘は、1938年12月29日に「重慶政府に対する和平提議の通電」(通称「艶電」)を発した。その内容は重慶政府に対し、「近衞三原則」に基づき日本との和解の道を模索すべきで、無謀な抗日戦争をやめてアジアの民族共栄と中国の救亡を図るべきだとするものだった。この通電の内容を知るや、蔣介石らは中央執行委員会臨時緊急会議を開き、汪兆銘の国民党籍の永久剥奪を決定した。ここに、汪は重慶との関係を絶ち、「漢奸」への道を歩むことになる。
然るに、前述したように、近衛声明では撤兵についての条項が省略されていた。これについて、通電では次のように述べていた。
「詳細の条件に至つては慎重商議の上妥当を期せねばならぬ。なかんづく重要なる点は、日本軍が全部支那より撤兵し、必ず全面的かつ迅速にこれを行ふべきであり、いはゆる日支防共協定の存続期間中日本軍が特定地域に駐屯を許すとしても、精々内蒙付近にのみ制限すべきである。これは支那の主権並に行政の独立完整に影響を及ぼすものであるから、以上の制限が行はれることによつて始めて支那は戦後の復興と近代国家の建設とに努力し得るのである」(中山樵夫編『汪兆銘言論集』)
汪兆銘としては、日本軍の撤兵はどうしても譲れない問題だった。汪は、和平が日本に対する屈服、すなわち売国行為ではないことを強調しなければならなかったのである。だが、彼の意思は多くの国民に理解されるものではなかった。
汪兆銘は一連の対日交渉における、日本側の高圧的な姿勢と要求に不満を感じていた。そのことは、日華協議記録の受け入れに当って、汪がかなりの逡巡を見せていたことからも分かる。第三次近衛声明により、汪は対等な協力関係の新政権を築くことができると信じていたが、影佐との交渉では撤兵と不平等条約撤廃の要求はほとんど無視されたに等しかった。そこで、汪兆銘は1939年2月4日、近衞に宛てて手紙を送り、新しく作られる政府は「貴国と平等の地位に立つ必要があります。そのようにして初めて、全国人民の理解を得て、共同の目的に向かって尽力することができる」と述べたのである。
汪兆銘は日本側との協議を行いつつ、新政権の準備を進めていった。汪は5月から6月にかけて、日本の要人と協議すべく側近とともに日本に渡った。6月14日には近衞と面会を行っているが、ここで汪は三民主義について説明し、孫文の意図が日中提携にあり、民生主義は共産主義と何ら関係のないことを力説した。これに対して近衞は、「孫文の主義主張に付ては、自分は能く了解し居れり」とし、かつて父・篤麿が孫文と昵懇であったことから、自分も2度彼と面会してその抱負と経綸に傾倒した旨を述べた。
次いで汪兆銘は、第三次近衞声明に基づいての新関係樹立のためには、中国側にはいくつかの要件があり、その1つが中国に「自由独立の政府」がなければならないことだとする。そして、「支那政府は一方充分に日本と協力すると共に、他方其の独立性を保持せざるべからず」と述べて両国の対等性を主張した。これに対し、近衞は「吾朝野は挙げて貴下に信頼し、時局の収拾に最大の努力を払はることを期待し居るものなり」と述べるに止めている(「近衛文麿、汪兆銘会談要領」)。
近衞は汪兆銘が6月中旬に帰国する前にもう一度目白の自宅で会談している。この時は通訳を介さず、筆談で3時間半に及んだという。会談の内容は残されていないが、影佐は「この会見で汪は非常にエンカレッジされた様に見えた」と述べたという(矢部『近衞文麿』)。汪は2度の会見で近衞の人柄・識見に心服したらしく、「近衞公は実に立派な政治家である。あれだけの人がゐれば、日本の将来は実に洋々たるものがある」と犬養に語っている(『西園寺公と政局』)。
8月30日、「独ソ不可侵条約」の締結を機に平沼内閣が倒れ、阿部信行が後継首相となり、近衞は引き続き無任所大臣となった。9月24日、汪兆銘は近衞宛ての手紙で、日本との提携のためには中国の独立と自由の回復が必要だと述べ、再び両国の関係対等化を主張した。しかし、近衞は10月11日付『東京朝日新聞』に掲載された「汪兆銘と私」において、汪側が日本と提携する以上は「将来に禍根を残さぬように十分に指導せねばならぬ」と述べており、汪の希望とはかなりの開きがあった。
汪兆銘は日本滞在中、板垣征四郎と会談し、新政府の国旗と維新政府の解消問題で対立があったものの、それ以外ではほぼ意見の一致が得られた。この後、汪は新政府樹立の方向へ大きく踏み出すことになる。だが、新政府の樹立は必ずしも円滑に進んだわけではなかった。それは近衞の発言からも窺える。
例えば11月14日、近衞は原田との電話において、阿部内閣の混乱もあって「汪兆銘の新政権はなかなか難しいやうだ」と述べていた。また11月27日に語ったところでは、政・軍界の要人の中には、「あまりに汪兆銘を図に乗らせ過ぎる。もう少し図に乗らせないやうに引締めなければなければならん」などという意見もあったとしている。さらに12月9日には、「対支処理の問題は、やつぱり汪兆銘相手に徹底的にやるよりしやうがあるまい」とし、重慶から南京に合流しようとする者も現れているという情報がある中、そうした人の数を増やすためにも、軍は強硬な要求ばかりすべきではないと述べていたのである。
その後、1940年1月に高宗武が陶希聖とともに和平運動から離脱し、香港で日本との合意文書である日華秘密協議記録原案を暴露するという事件が生じた。しかしこれによって大勢に変化は生じることはなく、同年3月30日に「還都」という形で南京に親日政権を樹立するのである。




