映画『空母いぶき』とアジア太平洋地域の不安定な平和(上) 戸張東夫

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<映画『空母いぶき』とアジア太平洋地域の不安定な平和>

日本の人たちがホリデームードに浸っていたクリスマスイブ前日の12月23日未明国籍不明の武装集団が日本列島南端の離島に上陸、占拠した。周辺海域に急行した巡視船との連絡も途絶えた。なぞの武装集団に捕らわれたに違いない。報告に驚いた政府は首相官邸で緊急会議を開くと同時に国連や関係諸国に非常事態の発生を知らせるなど慌ただしい動きが始まり、フィリピン近海で訓練中の航空機搭載型護衛艦「いぶき」及び護衛艦四隻、潜水艦一隻からなる護衛艦隊の急派を決定した。武装集団はわが国の一部離島の領有権を主張する「東亜連邦」らしいという。こうして映画『空母いぶき』(若松節朗監督、2019年)の物語が始まる。

★写真あり★

<平和憲法の枠内でもこれだけ戦うことができる?>

急遽戦闘態勢に入った「いぶき」を中心とする護衛艦隊は直ちに離島奪回に向かう。だが待ち伏せしていた潜水艦にミサイルで攻撃された。迎撃ミサイルで応戦したが相手の潜水艦のミサイルをすべて迎撃できず、その一発が「いぶき」に命中、艦載機の発進ができなくなるなどたちまち戦闘に突入。迫る相手の潜水艦を目前に、「攻撃すべき」か「先制攻撃はだめなのか」などの議論をしながら敵潜水艦の無力化に成功する。

一方首相官邸では「敵が攻撃を仕掛けたのだから、こちらも自衛隊の武力行使を可能にする防衛出動を首相は命じるべきだ」と迫る声もあったが、首相は首を立てに振らなかった。現憲法のもとで防衛出動を発動したことはこれまで一度もなかったのを意識していたのかも知れない。その後航空自衛隊の偵察機が「東亜連邦」機のミサイルに撃墜され、パイロットが犠牲になったことを受けて首相がついに自衛隊の防衛出動を命じ、戦闘の拡大は必至とみられた。だがわが国の呼びかけに応じて国連の安保理事会がいち早く開かれ、米、英、仏、中国、ロシアの常任理事五カ国が直ちに停戦に合意することに成功した。現場では戦闘のエスカレーションを覚悟していたところ、交戦中の両者の間の海に突然国連安保理常任理事五カ国の潜水艦が浮上し、自然停戦となった。安保理の常任理事五カ国がそんなに迅速に合意できるわけがないなどというなかれ。これはあくまでもフィクションなのである。

とにかくこうして停戦が実現し、戦闘拡大には至らなかったのである。首相官邸に詰めていた政府首脳たちは深刻な表情で「自衛のための武力行使は憲法には違反しない」「いやこれは戦争だ」などと議論していたが事態の急展開に大喜び。首相も「われわれは戦争はしないと国民に約束している。今回の事態は戦争ではない。憲法でも認められている自衛のための武力行使だった。これで国民にそう説明できる」とほっとした様子で顔をほころばせた。そういえば戦闘中の空母「いぶき」の戦闘指揮所でも迫りくる敵の潜水艦を目前にして「攻撃せよ」、「いやわれわれの任務は海上警備。正当防衛でない限り攻撃はできない」など憲法と戦闘行為の関係が議論されていた。戦闘中にそんな議論ができるものかどうか筆者にはわからないが、首相官邸と現場でこんな議論が展開されたのを観ると、『空母いぶき』は、平和憲法の枠内でもこれだけのことはできるのだと言いたいようにも受け取れる。あるいはこの辺りが『空母いぶき』の観客へのメッセージなのかも知れない。

<『空母いぶき』がアジア太平洋地域の緊張を映像化>

わが国が位置するアジア太平洋地域――ここでは西太平洋、東シナ海、南シナ海を含む北は日本列島から朝鮮半島、中国を経て南はフィリピン、インドネシアあたりまで広がる海洋をイメージしている――ではいま米中両超大国による激しい覇権争いが展開されており、いつ戦争(戦闘?)が起こっても不思議でないような緊張状態が続いている。しかも一朝事あらば何らかの形でわが国が巻き込まれることはほぼ確実であるだけに事態はきわめて深刻だといわねばならない。そんなアジア太平洋地域のいまそこにある危機を、わが国の領土の南端の離島を占拠した「東亜連邦」と自衛隊との戦闘の物語として映像化(視覚化)した『空母いぶき』の意義はきわめて大きい。テーマもタイムリーで、エンターテインメントとしてもよくできている。下手をすると単なる戦争アクション映画になりかねないところを、おとなの鑑賞に耐える作品に仕上げた点を特に評価したい。

ところで映画『空母いぶき』を生み出したアジア太平洋地域の不安定な平和の現実をスクリーンの奥に探ってみよう。

<アジア太平洋地域の平和を脅かすホットスポット>

まずアジアの不安定な平和を脅かす危険なホットスポットに焦点を絞って考えてみよう。ホットスポットというのは尖閣諸島、台湾、南シナ海のスプラトリー(南沙)諸島、パラセル(西沙)諸島である。これらのホットスポットはそれぞれ別個の歴史的、地理的、軍事的背景を有し、それぞれ異なる問題を抱えている。ホットスポットとして十把ひとからげにして論じるのは適切でないような気がしないでもない。だがこれら四つの島嶼、島嶼群には一つ共通点がある。すべてに中国が関係していることである。実はこれらすべての島嶼、島嶼群に対して中国が領有権を主張しているのである。それだけなら危険なホットスポットとはいえないのだが、問題はアジアの周辺諸国はもちろん、欧米諸国までこの中国の主張を認めていないのである。認めていないどころか、ベトナムや米国は激しく反対しており、時には中国との間で武力紛争にまで発展してしまうケースもあるのだ。中国がしばしば軍事的圧力を行使することも緊張激化の一因となっている。

 特に米国の対中姿勢はきわめて厳しく、スプラトリー、パラセル諸島に対しては実際行動に出ているし、台湾とは台湾関係法、尖閣諸島では日本と安全保障条約を結んでおり、かりに中国が武力行使した場合には米国が防衛に当ることになっている。このためこれらのホットスポットで衝突や紛争が発生するとどうしてもローカルな問題として処理することができず、たちまち米中両国の問題にエスカレートしてしまう。こういう構造になっていることもアジア太平洋地域における米中の覇権争いを複雑にしている背景の一つである。このような不安定な平和の中でこれらの島嶼や島嶼群の周辺では政治的圧力をかけたり、威嚇したり、警告したりする目的で米中両超大国の原子力潜水艦、空母、軍艦艇が水中や海上を遊弋し、上空では戦闘機や爆撃機が飛び回っている。いつ偶発的衝突が起こっても決して不思議はない状況である。まさに映画『空母いぶき』の世界が現実に展開されているのである。映画が現実を先取りしたのか、現実が映画に追いついたのか。アジア太平洋地域のこのような緊迫した不安定な平和の現実が『空母いぶき』の大きな迫力となってファンの心を揺さぶったに違いない。


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