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〔37〕鉄のカーテン時代が長かったウラジオストクへの旅行 小牟田哲彦(作家)

〔37〕鉄のカーテン時代が長かったウラジオストクへの旅行 小牟田哲彦(作家)

〔37〕鉄のカーテン時代が長かったウラジオストクへの旅行

昭和初期に日本からヨーロッパへ向かう場合、マルセイユ行きの客船で1ヵ月以上の船旅をするか、またはシベリア鉄道に乗ってソ連領内を通過していくか、の2コースがあった。後者の場合、日本本土から船て朝鮮半島の釜山または遼東半島の大連へ渡り、鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局)や満鉄(南満洲鉄道)の列車に揺られ、シベリア鉄道に乗り継ぐルートが一般的だった。

もっとも、当時の代表的な旅行ガイドブックである『旅程と費用概算』を開くと、朝鮮も大連も経由せずにシベリア鉄道へアクセスできるメインルートがもう一つあったことがわかる。それが、福井県の敦賀港から船で日本海を越えて極東ソ連の港町・ウラジオストクに上陸し、列車でヨーロッパ方面へ向かうコースである。

ウラジオストクから乗る列車は、国境を超えて中華民国(のちに満洲国)へ入った。同国内の東清鉄道(東支鉄道)を走破し、ハルピン経由で満洲里から再びソ連に入ってシベリア鉄道に合流したのだ。ソ連の権益だった東清鉄道は線路の幅がソ連国内の鉄道と同じで直通列車が運行されており、モスクワ方面へ行くには北方のハバロフスク経由より所要日数が短縮できた。

かように、日本にとっては北満洲やヨーロッパへ通じる大陸の重要な玄関口であったウラジオストクは、第2次世界大戦後の1952年に軍事上の理由から閉鎖都市となり、日本とソ連の国交が回復した後も観光目的で訪れることは原則としてできない時期が長く続いた。ソ連末期になると個人旅行者向けガイドブック『地球の歩き方』でもソ連編が刊行されたが、ウラジオストクの旅行情報などもちろん載っていない。正式に閉鎖都市としての指定が解除されたのは、ソ連崩壊後の1992年である。

長らく鉄のカーテンの向こうにあった街並みは、まるで長期保存用カプセルで40年間息をひそめていたかのように、帝政ロシア時代の瀟洒な雰囲気を色濃く保っている。シベリア鉄道の起終点であるウラジオストク駅舎は、大正時代の日本によるシベリア出兵時に撮影されたとき(画像参照)とほぼ同じ姿で、今なお現役の鉄道駅舎として使用されている。

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シベリア出兵当時に撮影されたと思われるウラジオストク駅舎。右端に「戦闘後ノ浦汐駅」と手書きされている

戦前の『旅程と費用概算』で、ソ連領内の訪問先として簡潔ながらも紹介されていた都市はウラジオストクだけである。それが、戦時中から冷戦終結まで日本の旅行ガイドブックからその名が消え、20世紀末にソ連が消滅してロシアが後継国となったことで、半世紀ぶりに観光旅行先として甦った。日本海の対岸に位置する立地もヨーロッパ風の街並みが醸し出すエキゾチックな魅力も変わらないのに、為政者の都合や国際情勢によって近くなったり遠くなったりした流転の観光都市である。


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