見知らぬ国に赴任する不安感は誰でも共通するものがある。治安や言語の違い、それに土地勘がないことなどの壁があるが、過ぎ去ってみると懐かしく思い出されるものだ。1985年半ばにバンコク特派員として初めて海外赴任した。会社によっては赴任前に語学留学する制度もあるようだが、筆者の場合タイ語どころかタイを訪れるのも初めてだった。
高度経済成長前のタイに赴任した日本人のほとんどが住み込みのタイ人のお手伝いさんを雇っていた。贅沢のように見えるが結局は経済的なのである。スーパーマーケットが未発達だったバンコクには市場が点在していた。何事も交渉事が好きなタイ、市場では定価を差し置いて店主と客の交渉で値段が決まるのだ。事情を知らない日本人客はタイ人の店主のいいカモになり高い値段で買わされてしまう。お手伝いさんを雇い、毎日の買い物も任せたほうが結果的に安く済むことになる。
赴任して間もなく在留期間の長い先輩特派員の奥様からお手伝いさんを紹介された。家族はまだタイに来ていなかったので、筆者がお手伝いさんを雇用するための面接を行うことになった。当時のタイは不景気で職を探すのが一苦労だった。中年女性のお手伝いさんは雇い主に気に入ってもらおうと気合が入っていた。お手伝いさんは家族を含めバンコクでの生活に大きく影響するだけに筆者も信頼できる人物かどうか見極めなくてはならず真剣だった。
赴任早々の仕事もありお手伝いさんにばかり気を取られているわけにもいかず、良さそうな人物だったので試雇してみることにした。翌日から朝食を作り、洗濯掃除それに買い物をしてもらわなくてはならない。しかし、さっそく言語の壁が立ちはだかった。お手伝いさんはタイ語しか話せないが、当時の筆者はタイ語が分からない。どうしても雇ってもらいたいお手伝いさんとタイでの生活を確立したい筆者との間でパントマイムを使っての真剣なコミュニケーションが始まった。
お手伝いさんを掛け時計の前に連れてゆき、8時の位置を指さす。続いて筆者が寝ているパントマイムをし、お手伝いさんが台所で朝食を作るしぐさをする。また掛け時計に戻り、9時の位置を指さし、筆者がカバンを抱え事務所に向かう動作をする。真剣に眺めていたお手伝いさんが大きくうなずいた。タイで初めて味わう暑さもあって全身汗だらけだが、こちらの意志が通じたようでホッとした。
翌日、9時に目が覚めた。朝食の用意どころかお手伝いさんはまだ来ていなかった。
写真1:80年代のバンコク
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