近衞文麿らの敬慕の対象であったのは、1913年8月から京都大学で宗教学を担当していた西田幾多郎であった。近衞らは西田を招いて『善の研究』を読んだり、休日には西田を交えて嵐山に遊ぶなどした。また、当時としては珍しいレコードなどを聴いて楽しんだりもした。彼らは毎週のように哲学の研究会を開き、西田が来られない時は哲学科副手の天野貞祐(後の文部大臣)が指導に当ったという。彼らは自分たちの集まりを「白川パーティ」と称するようになった。近衞は1913年3月、新潟の風見謙次郎に宛てた手紙で次のように書いている。
西田幾太郎 ©Wikimedia Commons
小生は昨夏、荒れ果てたる心を抱いて当地に来遊致し候うてより、幸に多数友人の温き情愛と、自由の生活と、清麗の山川と、然して西田先生とによりて、新しき希望の光線に浴したるを喜ぶものに御座候。小生は加茂に在住致し候へども、多数友人は白川に居り、期せずして白川パーティ成り、西田先生を屡々招待して晩餐を共にし、あるいはピクニックを致し居り候。
先生の個人あつて経験あるに非ず、経験あつての個人ありの語は、兼ねての主観的迷妄より小生を救ひ出されたる如く感じ申し候。
おそらく、近衞は大学入学以前から西田の名を知り、その著作を読んでいたものと推測される。上述の文章からは、近衞の西田哲学への傾倒ぶりが窺われる。然るに、この文章に続けて、近衞は人間としての最高生活は精神界にあるとしながらも、「経済学もまた精神生活を助くる一方便として、その主要の目的は貧困と言いう現象の研究にある」と述べている。精神の強調を説くこの部分から、近衞と西田の関係の深さを指摘することもできる。他方、これを国家主義と人道主義の融合を試みていた河上の思想との関連で捉える見方もある(古川、前掲)。当時の近衞の関心は、社会主義と人道主義を兼ね合わせたものにあったのではないだろうか。
1913年、近衞は旧豊後佐伯藩主で子爵毛利高範(たかのり)の次女・千代子と結婚した。彼女は近衞が一高時代に見初めた学習院女子部の学生であり、当時としては珍しい恋愛結婚だった。近衞は早くから千代子を妻とする決意を固めており、友人の石渡荘太郎を箱根に連れ出して千代子と如何にして結婚するかを徹夜で相談していたほどであった。そして、同年4月に千代子が両親とともに近衞邸を訪問し、6月17日に結納を交わして11月19日の挙式となったのである。当時、文麿22歳、千代子17歳であった。これを機に近衞は吉田山の近くに新居を定め、15年には長男・文隆(ふみたか)、翌年には長女・昭子(あきこ)が誕生することになる。
近衞文隆 ©Wikimedia Commons
西園寺公望 ©Wikimedia Commons
近衞は大学在学中に著述活動を開始した。彼の最初の著作は1914年における、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)の論説“The Soul of Man Under Socialism”の翻訳である。近衞はこれを翻訳するに当って、慎重を期して新潟の風見謙次郎に全文の校閲を依頼していた。13年10月3日付の手紙には、「随分誤訳多かるべく、訂正も致さずして差上げ候段、誠に慚愧に堪へず候」とあり、10月22日付には、「委細に亘り御訂正下され、且つ御忠言をも賜はり、難有、厚く御礼申上候」とある。
近衞はこの論説を「社会主義下の人間の魂」と題して、雑誌『新思潮』(第3次)の1914年5月号と6月号に掲載された。同誌の中心となったのは、久米正雄、松岡譲、山本有三ら一高時代の友人たちであった。翻訳の動機については、『近代思想』1913年2月号に山本飼山による同論文の紹介記事「ワイルドの社会観」が掲載されており、近衞がこれに刺激を受けたと見るのが妥当であろう。なお、『新思潮』5月号は内務省から発禁処分を受けているが、これは近衞の訳稿に起因するものではないというのが最近の説である。
ワイルドの論文は冒頭で、「社会主義が行はれたら、其結果として生ずる主なる利益は、疑もなく、吾人が他人の為に生活するといふ此賤しき必要から逃れる事である」と述べる。そして、社会主義はただ個人主義に達する手段としてのみ価値あるものであるという。社会主義は「私有財産を挙げて公有となし、争闘を変じて協力となし、社会を修覆して健全なる組織を有する正しき状態」とすることで、個人主義を現在よりも自由で美しく、そして強力なものとさせるのである。
ワイルドによれば、私有財産は個人の完成を妨げるものであるが故に、それを捨て去ることによって、キリストが人類に求めた「汝自身たれ」という使命は完成される。また、芸術は個人主義の「最強烈なる様式」であるとして、これを通俗化させようとする大衆や世論は否定されなければならないとする。すなわち、社会主義による貧困の克服が個人主義を完全なものとし、大衆に超然たる芸術が発展するというのである。
「社会主義の国家は一切支配の観念を放棄せねばならぬ」という言説は、あたかも無政府主義との接点を暗示するかのようである。しかし、ワイルドの論説は全体的に見て観念性に満ちており、政治や経済を変革する運動としての社会主義に通じるものはほとんど見られない。近衞はこの論説に何の論評も加えていない。しかし、彼がこの論説を取り上げて翻訳したこと自体が、この時期における彼の社会主義への関心の所在ないしは有り様を示していると言えるであろう。すなわち、社会的不平等の克服と個人の内面的自由の追求という点においてである。
1913年3月、近衞は日本訪問中の孫文と面会する機会を持った。9日、近衞は浄土真宗本願寺派の大谷尊由、京大教授の末広重雄らとともに京都駅に孫文を迎えたのである。翌日の新聞には次のようにある。「故近衞篤麿公の遺子文麿公は進んで挨拶すれば、孫氏は篤麿公が生前の昔を偲びて落涙潸々(さんさん)たり」。その後、京都ホテルでの歓迎会にも出席している(「孫逸仙氏入洛」、『朝日新聞』)。この時、近衞は孫文とアジア主義について語り合ったというが、当時の彼がアジア主義にどれほどの知識を持っていたかは定かではない。ちなみに、孫文は東京では2月14日、日暮里にある篤麿の墓前に詣でている。新聞は「謝恩の展墓」としているが、実際には新たな中国の指導者としての儀礼的活動の一環だったと言えるだろう。
近衞は1915年7月に京都大学を卒業すると大学院に進学している。専攻は国家学であり、指導教授は河上肇であった(「河上肇年譜」、『自叙伝』下)。しかし、他方では就職先をも探していた。そこで訪れたのが西園寺である。この時、近衞は「大学を出て、これから何になったものでしょう」と相談すると、西園寺は「経験になってよいから、知事になったらどうだ」と言われた。近衞が知事にはそう簡単にはなれないと言うと、「政党に入るのも一つの行き方だ」とも言われた(『清談録』)。しかし、矢部も指摘するように、西園寺ほどの人物がこのような荒唐無稽のことを言うとは考えられず、おそらく近衞の勘違いによるものであろう。
ここに、近衞の学生生活は終わりを告げるのだが、本章の最後に当たり彼の生活や趣味などについて述べておくことにする。
近衞は千代子との結婚後、二人の子供をもうけたことは前に触れた。その後、1918年6月に次女温子(よしこ)、22年5月に次男道隆(みちたか)が誕生する。多くの人の回想では、一様に彼が子煩悩で良い父親で、子供たちを伸び伸びと育てようとしていたとされている。近衞が子供の頃、父親からあまり遊んでもらえなかったことを省みてのことだろう。昭子によれば、成長するに連れて、両親とは冗談を遠慮なく飛ばし合って笑いこける、友達のような間柄になっていったということである。
また、近衞は夕食の後などに、食卓のまわりに4人の子供を集めると、一人で朗々とシェークスピアの作品を英語で暗唱して聞かせたという。昭子によれば、「アントニーとクレオパトラ」や「ジュリアス・シーザー」などが得意だったが、シェークスピアの作品はほとんど諳んじていたようだ。英文学だけでなく、李白や白楽天といった漢詩も暗記しており、目の前ですらすらと書いたというから、子供たちにとっては、近衞の教養は並外れたものと思えたことだろう。
近衞の趣味として、誰しも第一に挙るのは読書である。一高時代に始まる多読・乱読は続いていた。「種々な方面にわたつて、実によく本を読んでゐるやうです」とは、弟の水谷川忠麿の言葉である(「家庭に於ける兄近衞文麿」)。
近衞は書も能くした。近衞は毎日3時になると自分の部屋に引っ込み、昼寝をするのが常だったが、娘の昭子はかまわず部屋へ入って行った。すると、近衞はたいてい目をさましていて、よく人差し指で宙に字を書いていたという。筆がなくても指先で書の稽古をしていたのである。
ある夏のこと、軽井沢の別荘に落ちぶれて人力車の車夫となった某伯爵が訪ねて来たことがあった。近衞は彼をしばらく別荘に泊まらせて、その間の毎日、その人の生活の足しになるようにと書を揮毫していたという(『時計の歌』)。当時30代だったというから、近衞が既に政治家として注目されていた時分であり、その書も価値あるものとされていたのであろう。彼の人となりの一端を示すエピソードと言うことができる。
近衞には「虎山」という雅号がある。これは子どもの頃に、戯れに虎の絵を書いているところを見た父篤麿が付けてくれたもので、和歌・連歌に優れた第16代当主の近衞前久の「龍山」に比してのものだという(「荻外荘清談」2)。しかし、父がしばしば「霞山公」と呼ばれたのとは異なり、息子は雅号で呼ばれたり自ら用いることはほとんどなかった。現在残っている彼の書を見ても、署名はいずれも「文麿」である。本人が気に入らなかったのか、あるいは文人趣味を嫌ってのことなのか不明である。