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第2回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

第2回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

一高時代

 1909(明治42)年3月、近衞文麿は学習院中等科を卒業し第一高等学校に進学した。進学に際しては、叔父の津軽英麿(ふさまろ)は文麿が文学青年になるのを嫌って、法科を第一志望にするよう勧めた。

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津軽英麿 ©Wikimedia Commons

 当時、既に公爵となっていたからには、25歳になれば自動的に貴族院議員になるので、周囲の人たちは政治や法律を学んだ方が良いと考えたのであろう。しかし文麿は「断然文科に入ってしまった」(「身辺瑣談」)。近衞はこの年の8月に津軽に宛てた手紙で、「第一志望の法科は不合格で、そのため第2志望の英文科に入ったが、機会を見て転科する」と述べていたが、おそらくその気はなかったと思われる。一高では同じクラスに山本有三がおり、一学年下には菊池寛、久米正雄、松岡譲らがいた。

 近衞の一高受験の動機が、新渡戸稲造が学習院で行った講演にあったことは先に述べた。そのため、近衞は入学試験後に軽井沢の別荘に滞在していた新渡戸を訪ねている。この時、新渡戸は父の篤麿とドイツの大学で一緒だったということで、父の思い出話をしてくれた。そして、彼は近衞に2つの注意を与えたという。1つは学課以外の本を読まなければならないということであり、2つ目は形だけの蛮カラはいけないということだった(「新渡戸先生」)。当時の新渡戸は、一高にあった「籠城主義」という世間を見下す傾向に批判的で、これを正そうとしていたのである。

 近衞は19107月から8月にかけて朝鮮を旅行した。当時、津軽英麿は韓国宮内府に勤務しており、近衞に併合を間近にした朝鮮の実態を見せたいと考え、現地に来るように勧めていたのである。しかし、この時の旅行はほとんどが観光であって、津軽が期待したような民族意識を高めるものにはならなかった。むしろ、近衞は現地で武装した日本軍兵士が厳戒態勢を布いている状況を見て、これに強い反発を感じていた。後年、近衞は次のように記している。「全く当時の日本は、ミリタリズムの絶頂期で、此処彼処と軍閥の横行は、随所に私の眼に映じ、少からず反感をそゝられた」(「西園寺公と私」)。この時の近衞は、亡国の民を憐れむ気持ちの方が強かったのである。

 一高に入学してから授業で最も苦しめられたのは、岩元禎が担当するドイツ語の授業であった。近衞が記すところでは、岩元の教授法は乱暴極まるものであったようで、クラスの半分が落第するというほどのものであった。しかし、近衞は哲学者でもある岩元に個人的魅力を感じ、この頃から哲学へ強い関心を持つようになり、ギリシャ哲学などの話を聞きにしばしば彼のもとへ遊びに行った。その結果、近衞は「世の中で一番俗悪なものは政治家、一番高尚なものは哲学者だと思い込」むに至ったのである(「身辺瑣談」)。

 一高時代の近衞は、自分が華族の一員であるということに不満を感じるようになっていた。それはおそらく、中学生時代以来の社会的不平等に対する不満に起因するものであろう。そのため、宮中行事にも背を向ける傾向にあった。

 191073日、明治天皇が本郷の前田家を訪問し、10日には皇后が訪ねた際、近衞家には前田家との姻戚関係のゆえに招待の案内があった。この時、母の貞子をはじめ弟妹はみな行ったのだが、文麿だけは行かなかったという(矢部、前掲)。しかし、115月に天皇に面会する機会を得ると、この時は参加している。参内した時のことを記した風見宛ての手紙で、近衞は自らの行為を自虐的に述べつつ、「此頃はこんな事があまりくだらなく感じなく成り候。如何なものにや」と書いている(古川『近衞文麿』より再引用)。心境は変化しつつあったと言えよう。

 さて、ドイツ語の学習に苦しんだ近衞は、本郷に住むドイツ語個人教師の風見謙次郎に補習を依頼した。近衞は週に23回ほど風見のもとに通ったが、時には人生上の悩みも相談している。ある日、近衞は風見に向かって次のように述べ、孤独感を訴えたという。「自分は母親はないし、父親もとっくに死んでいるし、実に孤独だ、寂しいと。そして華族で公爵だ公爵だといわれて、先生まで遠慮する。実に寂しくてしょうがない。こういうものはすべて投げうって、そうして哲学者になって、大学教授になりたい」(松本重治ほか『上海時代・上』)。

 風見は1910年、新潟医学専門学校にドイツ語教師として赴任するが、近衞はその後も彼にしばしば手紙を送り、日常の生活を報告したり、心情を訴えるなどしている。それらのいくつかは、杉森久英の著書で紹介されているので、それに従って当時の彼の心境を見て行くことにしよう。

 1911年1月17日付の手紙では、この冬にはズーダーマン(Hermann Sudermannドイツの作家)やシェンキェヴィチ(Henryk Sienkiewiczポーランドの作家)の作品を読むつもりでいること、最近はイプセン(Henrik Ibsen ノルウエーの作家)の戯曲に関心を持っていることを述べている。翌年の夏休みに入った頃の手紙では、この1ヵ月の間に徳冨蘆花の「思出の記」「不如帰」、夏目漱石の「虞美人草」「それから」「門」、島崎藤村の「破戒」「春」、尾崎紅葉の「金色夜叉」を読んだとし、今後はドイツ語を正課として学ぶとともに、その合間には近松の浄瑠璃、哲学史、仏教統一論などを読むつもりだと述べている。読書量の多さと旺盛な意欲には驚かされる。近衞は、一高入学に際して、新渡戸が専門以外の本も読むよう諭したことを守っていたことが分かる。

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イプセン ©Wikimedia Commons

 9月3日の風見宛ての手紙では、読書報告を記すとともに、貴族的生活への疑問も綴っている。曰く、「僕は人格修養の上に最大なる影響を与ふるものは家族の幸福円満如何にありと信じ、この幸福円満を実現せんが為には今日の貴族生活を全部破壊せざるべからず、無闇と間数を多くし、玄関前を広く、沢山の僕婢を使用して、何から何まで彼等に委せなければ貴族に非ずといふが如き迷夢を打破してSimple lifeの福音を宣伝せざるべからずと存じ候」。しかし、その「Simple life」なるものが、果たして庶民レベルのものであったかは些か疑問である。

 1210日には、哲学科への進学を希望する旨を記した手紙を送っている。「小生は矢張り今の所、大学では哲学のコースを取る決心に御座候。哲学者にも非ず、政治家にも非ざるものが小生の理想に候。[中略]深く深く現実を味ひ、色彩や音楽に対する官能を陶冶せんとする切なる要求あれど、自然主義者の如く只無理想を称へて刹那刹那に生きんとするには、余りに熱き主観的要求これあり候」。

 手紙を受け取った風見は、自由な生き方を求めることは近衞家の立場上好ましくないとして、進路を考え直すように説得したが、本人の意志は変わらなかった。1912年5月25日付けの手紙では、一時は独文科へ進学しようとも考えたが、心機一転、「断じて哲学科と相定め」た旨を告げたのである。

京都時代
  
 1912年9月、近衞文麿は東京帝国大学文科大学哲学科に入学した。しかし、この頃の彼の関心は社会科学へと移っており、大学の井上哲次郎などの講義を聴いてみたが面白みを感じなかった。井上は天皇中心の国家主義者であり、当時の近衞の好みに合わないのも当然であったろう。そこで、彼は1ヵ月ほどで東大を退学して京都へ行き、入学期限が過ぎていたにもかかわらず京都大学の学生監に頼み込み、法科への入学を許可されるに至ったのである。

 近衞の京都大学への転学を案じたのは津軽英麿である。津軽は105日に「京都行の際に文麿に送るの書」と題した送別の手紙を送っている。この中で津軽は、京都行を心配する理由として、「京都は誘惑多き土地なること」、「貴君は公爵として国内第一流の、否第一の家柄なるのみならず、京都とは特別の縁故あれば殊更誘惑に陥り易きこと」を挙げている。そして、特に「婦人との関係を慎む可きこと」を強調し、京都では女性の誘惑が多いため、これに打ち勝つだけの決心が必要だとし、「公爵は醜業婦輩の眼にはじつに好個の喰物にして、彼等独特の怪腕を振ふべく大に警戒肝要に候」と述べている(芳賀与七郎『津軽英麿伝』)。しかし、津軽の心遣いはやがて散々な形で裏切られることになる。

 近衞が京都駅に降り立ったのは、1013日だった。近衞はそのまま人力車に乗って、白川村にある原田熊雄の下宿に飛び込んだ。原田は学習院の卒業生で、後に西園寺公望の秘書となる人物である。近衞はここで、学習院や一高出身者らと顔を合わせた後、丸太町通りの旅館に投宿し、10日ほどして下鴨東林町に一戸を構えた。家賃は15円で、女中と住み込み書生付きだった。親元からの仕送りは月に150円あり、大学卒の初任給が50円という時代としては、かなり余裕があったと言える(生田龍夫『重臣たちの昭和史』)。

 近衞は京都大学の学風には大いに満足したようだ。入学間もない19121016日付の風見宛ての手紙には、「当地大学の先生は、痛快なる人多く、危険思想養成所と云はるゝももつともなる次第にて、穂積(八束(やつか)、東大教授)の憲法など、めちやくちやにけなされ候」と書いている。保守派の法学者を痛烈に批判するリベラルな京大の雰囲気に、近衞は以前から惹かれていたのである。

 当時の京都大学法科は織田萬(よろず)らが中心の時代であったが、近衞は法律の勉強はそこそこにしておいて、経済学者の河上肇へと接近していった。当時の河上は社会主義に関心を寄せていたが、マルクス主義についてはまだ研究途上であり、近衞によれば「極端に左傾してゐなかつた」が、「然しその時分でも、目的のためには国外に追放される位のことは覚悟しなくてなならぬと云つて、クロポトキンなどを読んで」いたという(「我が遍歴時代」)。
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河上肇 ©Wikimedia Commons

 ある日、近衞は河上からジョン・スパルゴーの『カール・マルクスの生涯と事業』(John Spargo.Kar Marx;his life and work)とアキルレ・ロリアの『コンテンポラリー・ソシアル・プロブレム』(Achille Loria, Contemporary Social Problems)という2冊の本を譲り受けた。特に後者は面白く、近衞は一気呵成に読み終えたと記している。いずれも邦訳はされておらず、近衞は原書で読んだのである。これによって、彼の社会主義への関心は高まったものと思われる。
近衞が入った京都大学法科には、原田熊雄や木戸幸一(後の内務大臣)といった学習院出身者が既に在籍していた。この当時は、学習院高等科を出た者は、東大は定員が一杯だから京大へ行くという風潮があったため、それに従った者が多かったのである。学習院時代の彼らは互いに名前を知る程度であったが、近衞が京大に入学した頃から親密な関係が作られて行った。(続く)


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