民主化が進むインドネシアだが、スハルト軍事政権時代は政府が許可した以外のニュース取材はできなかった。緊急を要する事件や事故も取材が難しかった。
開発独裁を勧めるスハルト政権は民主化を求める動きを取材する外国のメディアには特に神経をとがらしていた。
1986年5月、日本赤軍による日本大使館などの爆破事件が起きた。被害はそれほど大きくはなかったが、赤軍派がアジアに活動拠点を移したのではないかと懸念され、日本にとっては重要なニュースになった。ジャカルタに入り取材したいところだが、取材ビザを申請しても許可が下りる可能性は無い。新聞社や通信社はビザ無しで現場に入り観光客の振りをして取材をする事ができる。しかしテレビ取材の場合は高価で大型のテレビ機材を持ち込むため、空港で通関することも難しい。
結局単独でジャカルタ入りした。日本大使館の向かい側に日系のホテルがあり、赤軍派はホテルの窓から日本大使館に向かって小さなロケット弾を発射しボヤが起きた。ロケット弾が発射されたホテルにチェックインし、電話帳で現地のカメラクルーを探したが、結婚式などを撮影するプロダクションのクルーしか載っておらず、取材に適しているか不安だけど贅沢は言えない。結局、インドネシア人のカメラマンと日本大使館を取材し、記者レポートを撮影した。
ところが警察官がやって来て、取材ビザと取材許可証の提出を求められた。所持していないことを告げると、警察までの同行を求められた。日本に深く関係した緊急事件であり取材を認めるべきだと説明したが、警察官は納得しない。取材テープを放棄する事を条件に拘束を解かれた。すぐに現場に戻り、警察官に見つからないようにもう一度撮影した。取材は何とか終える事ができたが、センサーが働いてインドネシアからは衛星伝送できない。
シンガポールに出て伝送する事になり、カメラクルー代金の支払いを済ませ空港に向かおうとした時、カメラマンが爆発直後の現場を面白半分に撮影したと言い出した。先にそれを言って欲しいと思ったが、報道を専門としないカメラマンにニュースの判断を求める方が無理だ。爆破直後の映像も買い、シンガポールに向かった。東京のデスクと電話で確認をしながらシンガポールの放送局から衛星伝送した。
苦労して取材した映像には東京のデスクの反応はなかったが、爆発直後の映像の伝送が始まったとたん「これはスクープだ!」と喜ぶデスクの声が電話を通して聞こえてきた。
写真1:ムルデカ宮殿の警備兵
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