第118回 常夏マニラの電力不足 直井謙二

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第118回 常夏マニラの電力不足

暑い季節がやってくる。今年は東日本震災による電力不足でエアコンの設定温度を高くしなくてはならないし、最悪の場合、停電もあり得る。

電力が不足する経験を持ったことのない大方の日本人は戸惑いを感じる。筆者の場合、子供の頃に朝鮮戦争(1950~53年)があって、近くの米軍基地が爆撃される心配があるとして、灯火管制を受けたことと、フィリピンのラモス大統領時代にマニラ支局に赴任し、電力不足で蒸し風呂のような経験をしたことが思い出される。

灯火管制は電灯に手ぬぐいやタオルを巻いて外に光が漏れないようし、停電になれば、ロウソクの炎の下に家族が集まった記憶がある程度で、苦痛よりもいつもと違う生活にわくわくしたことを子供心に覚えている。

一方、40代半ばに経験したマニラの停電は地獄だった。フィリピンの電力事情の悪化は当時のアキノ大統領(故人)のマルコス元大統領(同)に対する遺恨に起因するところが大きい。

1986年2月、フィリピンの黄色い革命で当時のマルコス大統領が失脚し、革命に寄与したとして外国人記者も表彰され、筆者もメダルを頂戴した。(写真)

夫のベグニノ・アキノ上院議員(当時)の殺害はマルコス元大統領の指令によるものとするアキノ大統領の遺恨は並々ならぬものがあった。

第2次大戦中の「死の行進」で有名なバターン半島にはマルコス大統領肝入りの工業団地があり、アメリカの原子力発電メーカーのウエスティング・ハウス社が輸出した原子力発電所なども建設中だった。

アキノ大統領の遺恨はマルコス氏に関係するすべての設備や人物に及び、電力行政に携わる役人や技術者までも追い出されてしまった。そのツケが90年代半ばのラモス政権になって噴出し、マニラ中が停電に悩まされた。マニラの停電は事前予告もなく、復旧時間も分からない。高層マンションに住む富裕層は冷蔵庫にしまってある食品が腐り、窓が開けられない室内はサウナ状態だ。

特に4月、5月の猛暑の夜は団扇であおいでも一睡もできない。高層マンションの眼下にはスラム街が広がっているが、窓を開けられる粗末な家がうらやましかったことを思い出す。

仕事の面で最も問題なのは、東京へのテレビの生中継だ。突然、停電になっては困るので、生中継の際はまず事務所に置いてある発電機のエンジンをかける作業から始めなければならなかった。住んでいたマンションにも発電機が設置され、辛うじて扇風機が回ったときは飛び上がるほどうれしかったのを覚えている。


写真1:革命に貢献したとして外国人記者を表彰するアキノ元大統領

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