〔39〕朝鮮語で出稿された朝鮮総督府鉄道局の観光旅行広告 小牟田哲彦(作家)

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〔39〕朝鮮語で出稿された朝鮮総督府鉄道局の観光旅行広告

戦前の朝鮮半島の旅行ガイドブックを見ると、温泉や登山コースが各地にあって、現地では観光客を迎える宿泊施設が整備され、そこへ至る鉄道のサービスもずいぶん充実していたことがうかがえる。今の北朝鮮に位置する金剛山へは京城(現・ソウル)から内金剛への夜行列車が運行され、広大な金剛山地域全体のハイキングコースが設定されていた。ロシア国境にも近い北方の港町・羅津には、満鉄直営の西洋式ホテルとして名高いヤマトホテルが昭和14(1939)年にオープンしている。

史跡の観光地化も進んでいる。豊臣秀吉の朝鮮侵略の旧跡や日清・日露戦争の戦績地が名所として賑わっていたのは本連載の第18回(戦前の朝鮮定番観光コース「豊臣秀吉の朝鮮進軍跡巡り」)で紹介した通りだが、現代では世界遺産に指定されている慶州の新羅古蹟や仏国寺周辺も遊覧ルートとして整備されていたし、平壌市内には李氏朝鮮時代の古城跡が散在していた。

そうした名所旧跡のほとんどは、鉄道網が整備され、一般庶民でも遠隔地への移動が容易になった日本統治時代に整備されたものである。とはいえ、当時の旅行ガイドブック『旅程と費用概算』によれば、昭和10年の時点で京城の人口約70万人のうち内地人(日本人)は約13万人で朝鮮人が約57万人、平壌は人口約18万人のうち内地人は2万2千人、外国人は1,900人で残りの15万6千人は朝鮮人、日本本土に近い釜山でも人口約21万4千人のうち内地人は5万8千人で朝鮮人が15万5千人ほどと、要するにどんな主要都市でも朝鮮人の方が多かった。それは、日韓併合に前後して日本人が後から朝鮮半島に渡っていったのだから当然のことではある。

そういう人口構成の地域で観光客を増やそうとするとき、日本人だけを相手にするわけがない。古くから朝鮮きっての名山とされた金剛山のように、日本人よりも、もともとこの地域に先祖代々住んでいる朝鮮人の方が思い入れや憧れが強い旅行先もある。

昭和31928)年112日付の東亜日報に掲載されている朝鮮総督府鉄道局による遊覧旅行広告

上の画像は、現在も韓国で刊行されている日刊紙「東亜日報」の昭和3(1928)年11月2日付の紙面に掲載されている広告である。朝鮮語の新聞だが、日本統治時代のことゆえ発行日には和暦が用いられている。当時の朝鮮人は漢字を解する人が多かったことから、ハングルと漢字が混用されている。特に地名や固有名詞は漢字が原則なので、現代の日本人が見ても何となく意図が読み取れる。広告主は右端に漢字で大書されている通り、朝鮮総督府鉄道局である。

「休日!休日!」「御大典」「奉祝」という漢字と、11月2日の紙面であることから、翌11月3日の明治節(現・文化の日)に家族で温泉やピクニックに行くことを勧める観光旅行広告であることがわかる。各温泉地に向かう鉄道利用者向けに、2割引の往復割引乗車券を販売することなどが案内されている。

朝鮮語の日刊紙にこうした朝鮮語での観光案内広告が出稿されていたということは、それを読んだ当時の朝鮮人に対する一定程度の広告効果が期待できたことを推測させる。そうした地元の朝鮮人による観光需要は、朝鮮各地の観光地の発展に大きな影響を与えたはずである。それが、第2次世界大戦とその後の朝鮮戦争を挟んで、現代の韓国各地で国内外の旅行者を多く迎え入れている観光地の隆盛につながっているのだろう。


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