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国境紛争とタイ・カンボジアの歴史 直井謙二

国境紛争とタイ・カンボジアの歴史 直井謙二

国境紛争とタイ・カンボジアの歴史

20257月、タイとカンボジアの国境地帯で戦闘が発生し、死者が出た。アメリカのトランプ大統領は関税引き下げ交渉を梃子に両国を強引に仲裁し、表向きの軍事衝突は停止した。これはトランプ大統領にとって数少ない紛争解決の成功例といえるが、停戦合意後も小規模な衝突は続いており、再び大規模な戦闘に発展する可能性は否定できない。

両国の対立は数百年に及ぶ深い歴史的背景を持つ。どの地域の紛争も解決は困難だが、標高差約600メートルといわれるダンレック山頂に建つプレアビヒア寺院の領有権(崖の上はタイ領、崖下はカンボジア領とされる)は両国にとって特別な意味を持つ。

プレアビヒア寺院は9世紀末にクメール王朝によって建立された。アンコールワットに次ぐ規模と価値を誇るこの遺跡で観光資源として価値がある。ヒンズー教の「神は聖なる山に降臨する」という思想を背景に山頂に建立し、歴代の国王は参拝を欠かさなかった。クメール王朝はインドシナ半島全域に勢力を広げ、600を超える寺院を建立したが、15世紀には衰退し、アユタヤ王朝(タイ)の侵攻によって都を放棄。プレアビヒアを含む多くの寺院がタイの支配下に入った。現在もタイ国内には多くのアンコール遺跡が残っている。

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時代が移り、19世紀になるとフランスがインドシナに進出し、ラオス・カンボジア・ベトナムを支配するとともに、タイもフランスの圧力を受け、ラオスとカンボジアの西部を失い、現在の国境が形成された。

その後のインドシナ紛争期、プレアビヒア寺院はポルポト派の砦となった。標高差600メートルの崖からカンボジア領を一望できるこの地は軍事的に有利であり、ポルポト派は砲撃を展開。タイはポルポト派を支援し、カンボジア軍の砲弾がポルポト派の拠点を超えてタイ領に着弾すると、タイ軍も応戦した。

1998年、ポルポト氏の死去を機に寺院から兵士の姿は消えた。筆者が直後に訪れた際、境内にはまだ砲弾や大砲が残り、戦乱の痕跡が生々しく残っていた。一方で、早くもタイ人観光客の姿も見られ、遺跡は観光資源として注目され始めていた。

やがて両国は領有権をめぐり対立を深め、2011年、国際司法裁判所はプレアビヒア寺院をカンボジア領と認定した。しかしタイ側は判決に強く不満を抱き、現在に至るまで軍事的緊張は解消されていない。


《アジアの記憶 直井謙二》前回
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