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〔41〕日本語観光案内文の質の変化 小牟田哲彦(作家)

〔41〕日本語観光案内文の質の変化 小牟田哲彦(作家)

〔41〕日本語観光案内文の質の変化

近年は日本国内の主要観光地でも、名所に掲げられている観光説明文に中国語やハングルの訳文が併記されることが増えてきた。中国語や韓国語を母語とする観光客には親切な措置で、その観光地への親近感を抱きやすくなると思われるが、この、国外の観光地で自らの母語による観光案内表示に接する体験は、日本人旅行者にとっては戦前からなじみのある海外旅行体験の一つであった。

第2次世界大戦前までは、日本統治下にあった台湾や朝鮮はもとより、日本にとっては外国にあたる満洲国や中華民国でも、史跡や記念碑には日本語の説明文が掲げられていることがあった。日本人旅行者が多かったというだけでなく、そうした記念碑を建立したのがそもそも日本人であるとか、現地で観光業に従事している日本人が多かったという事情も手伝っていた。

戦後はしばらく日本人の海外旅行が途絶えたが、アジア方面に日本人旅行者が増えていくと、観光名所に掲げられている観光客向けの説明プレートなどに、地元の第一言語と英語と並んで日本語が併記されるケースが増えてきた。通訳兼ガイド付きの団体旅行がメインだった昭和中期以降の海外旅行スタイルだけでなく、個人で手配して行動する個人旅行者が増えていけば、そうした日本語による観光説明文の意義は正比例して大きくなる。

ただ、そうした動きが広がり始めた初期の頃は、へんてこりんな日本語の文章に遭遇することも少なくなかった。画像は1997年にソウル市内の西大門独立公園にある旧拘置所の建物の前に立てられていた説明文である。何となく言わんとすることは伝わってくるとはいえ、学校で教えられる日本語科目でこのような文章を書いたら、初級コースでもたぶん及第点はつかないだろう。

ウェブ上の翻訳サイトやスマホの翻訳アプリなどなかった当時、こうした日本語の説明文は、公園を管理する役所の限られた予算の中で、限られた日本語学習経験者が辞書を引きながら一生懸命作ったのだろうと想像する。韓国には、この頃はまだ60代の年輩者でも幼少時に日本語教育を受けた人が多かったし、70代以上なら青年期まで日本語が公用語だったので、そうした世代の人たちに添削を受けた方が良かったのではないかと思えるほどだ。

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ソウル市内の西大門独立公園に掲出されていた日本語の説明文(1997年撮影)

こうした観光客向け説明文は、その後、時を経るにつれてだんだん姿を消していき、今ではアジア各国の多くの観光地で、日本人(韓国の場合は在日韓国人かも)のネイティブチェックが入っていると思われる自然な日本語の説明文を目にすることができる。それは、多くの日本人観光客が長期にわたってその地を訪れ続けていることの証とも言えるだろう。


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