1919(大正8)年3月2日、西園寺公望ら全権団一行はパリに到着した。パリ講和会議は1月18日から始まっており、五大国(米・英・仏・伊・日)首脳会談や、五大国の十人会議など議題に応じて開催された。4月28日には講和会議第5回総会があった。通常なら人数制限のため随員の資格では入場できないところを、近衞はあらかじめ交渉して新聞記者の身分で会場に潜り込むことができた。本来ならルール違反だが、総会では国際連盟規約案が採択されるとあって、是非ともその場に臨みたいと思ったのである。
総会は午後3時に開会した。近衞はその情景を次のように記している。「中央にクレマンソー、左右にウヰルソン、ロイド・ジョージを始めとして世界各国の政治家が星の如く居並びたる光景壮観の極みなり。思ふに是丈の役者が一堂の下に会したる丈にても歴史上稀有の事なるべし、況や彼等の此処に演じつゝあるものは、古今未曾有の大戦乱の跡始末の為に世界の大改造をなさんとする古今未曾有の大芝居なり。余は今図らずも此千載一遇の機に会し得て衷心の愉快を禁ずる能はず」(「講和会議総会を見る」、『戦後欧米見聞録』所収)。歴史的瞬間に立ち会っている近衞の興奮が伝わってくるようである。
しかし、人種差別撤廃を国際連盟規約前文に入れようとする日本の提案は、英米などの強い反対に遭って断念せざるを得ず、当日の総会では牧野伸顕代表が人種問題の「留保」の演説を行うにとどまった。近衞はその光景を目の当たりにしており、「嗚呼国際連盟はかくの如くにして遂に此処に現れたり」という言葉には、国際秩序が英米を中心として構成・維持されていることを実感させられた思いが込められている。
こうした現実に対して日本はどう対処すべきなのか。近衞の考えは、6月初旬に書かれた「講和会議所感」に具体的に示されている。所感の第1は、力の支配という鉄則が現在もなお厳然と存在していることである。正義は力に代わるべしという声もあったが、世界は依然として力の支配を免れることはできない。第2は専門外交・秘密外交が過去の遺物となり、国民外交・公開外交の時代が到来しつつある今日において、プロパガンダは外交の重要な手段となっていることである。この方面において、日本は中国の全権団に大きく遅れを取っており、今後は大々的に対外プロパガンダを実行する必要があるとされる。
所感の第3は外交官制度刷新の必要性である。外交官の手腕が外交の成否を左右する時代においては、有能な外交官を養成しなければならず、そのためには人材登用の門戸を広げ、国際情勢に通暁し、各種の国際問題を理解できるよう研鑽させる必要がある。第4は日本の国際的地位向上に伴い、国民は世界的知識を広める必要があるということである。依然として、日本人の関心が東洋以外に向けられていないことは遺憾だとされた。
講和会議の期間中、近衞はフランス社会の実態を観察しており、それは「巴里見聞」という文章にまとめられている。この中で、近衞はフランス人の「節倹質素の風と国民的伝来の愛国心」を高く評価している。しかし、それは消極的美徳と言うべきもので、戦後の新しい時代情勢に処するには不適切であるため、国民は積極的かつ進取的な気質を持たなければならないとされる。現状のままでは、フランスの将来は頽廃の道をたどるかもしれないと言うのである。また、近衞はフランスで労働者の地位向上を実見している。メーデーではゼネストの威力を身をもって体験し、労働者はこれを運動の武器としてさらなる地歩を開きつつあると述べている。
5月12日には西園寺とともに、第1次世界大戦で大きな被害を受けたランスの戦跡を訪問している。近衞は当地の凄まじい被害の状況を見てドイツの非道さを非難する。そして同時に、フランスが積極的な予防策を講じることなく、国際法のような「恃む可らざるもの」に依拠するばかりだったことをも批判している。近衞はこれを教訓として捉え、「日本国民よ恃む可らざるものを恃まずして先づ自らの力を恃め」と記している(「巴里より」下)。
講和会議は6月28日、ヴェルサイユ宮殿での調印式をもって終了した。全権団はそれぞれ帰途に就き、西園寺らは7月17日にパリを離れた。近衞は一行を見送り、その後は渡欧中の宗教学者・姉崎正治と共にフランス、ドイツの各地を旅行した。その過程は旅行記「ラインの旅」に記されている。彼はヴェルダンの戦跡を見た後、ストラスブルグ、マインツなどを経て、23日にはヴィースバーデンでラインラント独立運動の指導者であるハンス・アダム・ドルテンと会談を行っている。そして、24日夕刻にボンに到着した。
ボンは34年前に父・篤麿が学生生活を送った町である。近衞は幼少の頃、父からボンで世話になったライン教授という人物について聞かされていた。そこで、早速大学へ行って教授の消息を聞いてみたところ、昨年亡くなったということだった。翌日、近衞はせめて夫人に挨拶しようと自宅を訪問したところ、彼女は涙ながらに昔の思い出を語ってくれた。近衞にとっては、父の青春時代に思いを馳せる感傷的な一日となったであろう。
近衞はラインの旅を終えてフランスに戻った。そしてイギリスに渡り、8月19日には帰国後の政治活動の参考にしようと議会を傍聴した。翌日から10月まで休会というので、急ぎ大使館に紹介状をもらってのことであった。近衞は議場が静粛で、議員たちが紳士的態度を失うことがないことに感心している。当日はロイド・ジョージの演説があったが、これを聞いた近衞は「絶大の勢力と真摯なる意気」に感激し、「是をかの禅坊主の如き不得要領を並べて御茶を濁す日本の国務大臣と対比し来る、其差只に霄壌(しょうじょう)のみには非ざる也」と記している(「英国議会傍聴記」)。
9月24日、近衞はニューヨークに到着した。近衞はアメリカの活気あふれる様に感動した。彼は次のように記している。「英国は今や全盛の絶頂に上りつめし老大国なり、米国は日進月歩の勢を以て勃興しつゝある新進国なり。英人も米人も共に奮闘努力の国民なるは世界の均しく認むる所なりと雖、前者の努力が已に得たるものを失はざらむとするの努力なるに反し、後者の奮闘が更に進んで何物かを獲得せんとするの奮闘なるに於て其間に大なる逕庭の存するを認めざるを得ず」。そして近衞は、こうしたアメリカの活気が国民の「好戦的尚武的素質」に支えられたものであると考えた。
他方において、近衞はアメリカにおける山東問題を中心とする排日的気運の高まりを認識した。新聞や雑誌には日本は第二のドイツであり、中国を併呑する意志があるとの記事が載せられていた。近衞は排日の原因には人種的偏見や、日本が短期間に経済的成長を遂げ、西海岸地域に移民が押し寄せていることに対する脅威もあるだろうと述べている。だが、日本人の側にも問題があるという。日本人には集団を形成して日本的衣食住に固執する傾向があり、これはアメリカ社会への同化を困難にさせることになるからである。
こうしたことに加えて、近衞が指摘するのは日本を軍国主義だと批判する中国のプロパガンダの存在である。これはアメリカの知識人層に多大な影響を与えていると見られた。しかし近衞の考えでは、面積狭小で人口増加に向かう日本が海外に進出することは、国民生存権の上から当然のことであった。このことを理解させるために、日本は積極的にアメリカに向けたプロパガンダに力を入れるべきなのである。だが現実問題として、近衞の論理が通用するほど問題は単純ではなかった。彼は五四運動に見られるような中国ナショナリズムの高揚を理解できていなかったのである。
11月21日、近衞はおよそ10ヵ月ぶりに日本に戻った。当日の記者会見では、ヨーロッパ各国での見聞で受けた印象を語った(「近衛文麿公帰る」、『朝日新聞』11月22日)。近衞は渡欧に際してはほとんど注目されていなかったが、講和会議の全権団の随員としての行動はマスコミでも紹介されており、彼に対する注目度と評価はにわかに上昇していた。
この度の外遊で、近衞は西洋的価値観や新しい生活様式に直接に触れ、それに大きな衝撃を受けた。彼が因習に満ちた日本での生活に疑問を感じるのは自然なことであった。しかも、当時の彼には家族と共に再び外国に渡りたいという気持ちがあり、帰国後そうした考えを公然と口にしたことで、新聞記事に取り上げられたことも何度かあった。そのため、世間では近衞が日本を捨ててアメリカに永住するのではないかとの噂が立っていた。
そのような中で、『婦人公論』1920年2月号に「不愉快な日本を去るに際して」と題する記事が掲載された。口述筆記によるものだが、近衞はここで近々家族を連れて外国に行くつもりで、程を見て家族は帰国させるが、自分は1、2年間は向こうに住む考えであると述べている。彼は言う。「何が不平の点かと問はるゝならば私は即座に『見るもの聞くもの不平の種ならざるはない』と答へる」。日本社会は因習に因われ、加えて食事、住宅、衣服など全ての面で日本の生活は不自由だと言うのである。
この記事によって、近衞は「米国に逃げ出す非愛国者」と見なされ、自宅には「壮士の来襲するあり、脅迫状の舞ひ込むあり」の状態となった。そのため、彼は『婦人公論』の翌々号に「弁明」と題する記事を発表した。近衞はここで、日本の悪いところを改めるのが自分の任務であるので、日本に不満を感ずれば感ずるほど憂国の熱情に燃えざるを得ないとする。それは、今の志士たちが口々に改造を叫ぶのと同じ動機によるのだとして、「不満の点に眼を閉じて只日本の金甌無欠(きんおうむけつ)なるを信ぜよと云ふが如きは井底の蛙見に非ずんば偽愛国者の僻論なり」と述べている。
このように、近衞は世間の批判に全く悪びれていない。それどころか、彼はこの後もアメリカ行を企てている。しかし、1920年6月4日付の西園寺の近衞宛ての手紙に、「外遊御延期云々御同情に堪へず候、しかし前途洋々本年末に御出立も又妙と存候」とあるように、その計画は実現しなかった。おそらく、親類の反対に遭ったためだろう。夢破れた近衞だが、この後は貴族院の少壮政治家として活動していくことになる。