第6回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

初期の政治活動
憲法研究会の結成
帰国後の近衞文麿は、少壮貴族院議員として注目されつつ政治活動を再開した。1921年には、中橋文相問責問題や憲法研究会の結成などに関わっている。
中橋文相問責問題とは、原敬内閣の文部大臣だった中橋徳五郎が臨時教育会議の了解を得ずに高等教育機関の新設と昇格を認めておきながら、有力者の反対に遭って予算を計上せず、「中橋二枚舌問題」として貴族院で問責決議案が出された事件である。決議案は結局否決されたが、もともと近衞はこれに反対の姿勢を表明していた。

中橋徳五郎 ©Wikimedia Commons
近衞は1921年3月11日の『時事新報』において反対の理由を述べている。それによれば、貴族院が内閣弾劾を行うのは政府によほどの重大な過失があることを要し、貴族院自らが弾劾の結果に責任を負う覚悟が必要がある。しかし、貴族院にそうした覚悟があるとは思えず、また今回の事件自体が「政局の変動を余儀なくせしめる程の重大問題なりとは」言えないことから、決議案提出は貴重な時間を空費するだけの本末転倒の甚だしきものとして反対したのである(「文相問責案に不賛成の近衞公」)。
この頃、近衞は貴族院改革の必要性を感じていた。3月15日、近衞は上記『時事新報』の記事の切り抜きを同封の上、1920年ころから交遊のあった森恪に手紙を送り「上院改造問題は議会閉会後、早速同志にて研究の必要あり」と述べていた。そして、彼と話し合う中で憲法研究会を作ろうという話になり、各方面からメンバーを集めて6月に同会が発足した(山浦貫一『森恪』)。会員には貴族院からは二条圧基、木村欣一、西尾恵方と近衞。衆議院からは政友会の森恪、山口義一、河上哲太、松岡俊三、一宮房治郎、岩切重雄、山崎猛。憲政会の森厚三、国民党の堀川美哉などがいた。

森恪 ©Wikimedia Commons
憲法研究会の改革案の中には、貴族院の多額納税議員制度を廃止するというものもあった。6月30日『朝日新聞』によれば、多額納税議員の中には鎌田勝太郎のように積極的に賛成の意を示すものもいたが、多額納税議員のみならず多くの貴族院議員、特に父祖累代の爵位に依って議席に就く公侯爵の中には、自分たちの特権が侵されることを懸念して、反対の策をめぐらして現行制度を守るべく憲法研究会の活動に妨害を加えようとする動きもあったようだ(「少壮派の密議に公侯爵団の妨害」)。
憲法研究会は貴族院改革だけでなく、外交問題も議論の対象とした。ワシントン会議が近づく中、研究会は8月7日に帝国ホテルで会合を開き、日本がこれにどのように対処すべきかを議論した。翌日付の『朝日新聞』によれば、近衞は次のような趣旨の講話を行っている。
「吾々研究会の一同は政府にも希望し、我同胞一般にも諒解を得たいことは沢山あるが、対外的には例へば会議に先立ち西伯利(シベリヤ)の撤兵を断行したい、あれがある為め列国の中傷を蒙ります。この会議を機会として進歩した思想に進みたい、いはゞかの桃太郎主義ともいふべき徒らに他の領土を獲得する様なことは列国の誤解を招く、つまり軍人政治とか軍閥外交とかの避難を排するに十分政府の理解を得たい、門戸開放も米国自らにもやつて貰ひたい、支那の如きは列国管理論などもあるが、以ての外で支那は支那としての主権を飽迄(あくまで)尊重したいと思ひます」。(「太平洋問題で新人連奮起」)
この時点での近衞の姿勢は、日本の露骨な侵略主義に反対し、中国の門戸開放を主張するものであった。
教育改革の主張
近衞はこの時期、教育改革も主張している。すでに見たように、彼は日本が国際社会で生存していくためには、国民の質的向上が必要だと考えていたが、教育はその根本に関わる問題であった。1921年7月3日、近衞は『国民新聞』に論説「教育の改善」を発表している。ここで彼は、教育の改善は生活問題の解決と並んで、あらゆる国策遂行の出発点であり、また前提条件でなければならないとしている。
しかし近衞によれば、教育の改善とは教育制度の改善を意味するものではない。むしろ、日本の教育制度はヨーロッパと比べて平等的なものであり、進歩的なものである。しかし、その運用面では遺憾の点が多く改善の必要がある。その重大なる欠陥は「実際的でない」という点にある。教育の目的は、「特定の時代、特定の社会に於て、生活をなすに役立つもの」でなければならないが、現在の教育者たちはこの点を閑却している観がある。
徳育の面では、大人でなければ必要のない道徳を子供に教えていること、全ての生徒に偉人となることを要求していること、そして非常時の道徳が強調されて平常時の道徳がなおざりにされている傾向にある。特に最後の点では、「忠君愛国」をを説くことは大切だが、立憲体制下の国民として日常の義務を果たすことが重視されていないことは、欧米先進国と比べて甚だ遺憾に感じられるものがあるという。
また、知育においても同じで、今日の教科書は純粋科学の体系には忠実ではあるが、実際生活に応用させる点では問題が多いとされる。こうしたことは、今日の青年たちが平凡と常識を厭い、高遠幽玄の哲理と抽象を好む傾向にあることと無縁ではない。彼らが抽象的空論に没頭することは、国家にとって好ましいことではない。平凡を忌み常識を軽んじる国民は国を滅ぼすことになる。そのため、常識教育こそが必要なのである。
以上のことから、近衞は「非常時教育を平時教育に、非凡人教育を平凡教育に、抽象的教育を常識教育に改善すると云ふ事は、所謂危険思想の対抗策としても、亦必要缺く可からざる事である」とするのである。また、生徒を常に受動的立場に置くことも我国の教育の重大な欠陥であるため、師範教育を改善して「人間らしい教員」を作ることが目下の急務であるとされている。

床次竹二郎 ©Wikimedia Commons
1921年9月28日、近衞は内務大臣の床次竹二郎に推されて日本青年館の初代理事長に就任した。前年11月22日の皇太子(後の昭和天皇)の令旨に基づき、青年団運動の本拠として青年館建設の議が起こっていた。そして21年9月2日、日本青年館の建設と維持・管理を行い、併せて全国青年団の発達を助長することを目的とする財団法人日本青年館が設立されていたのである(熊谷辰治郎『大日本青年団史』)。
近衞の理事長就任は、青年教育の意を持ってのものだったと考えられる。しかし、青年会館の事務局では派閥抗争や露骨な不正が横行していた。それを知った嘱託職員の後藤隆之介と志賀直方の進言を受けて、近衞は青年会館の改革に乗り出すこととなった。
近衞は常務理事に辞表を提出させるという手段を取った。常務理事は文部省・内務省の推薦で来た人物だったが、近衞は両省に連絡もしなかったという。青年館の規約に「理事は理事長これを委嘱す」とあるので、罷免することもできるはずだと考えたのである(『後藤隆之介氏談話速記録』)。この後、常務理事の周囲の人物をも解任した。しかし、こうした大胆な決断に対しては内外からの反発も強かったため、近衞は1924年10月に理事長を辞任している。
「国際連盟の精神」
国際連盟は1920年1月10日に成立したが、連盟規約の実施および改善を促すべく各国に国際連盟協会が設立された。日本国際連盟協会は1920年4月23日、築地精養軒で発起人会を開き成立し、近衞は翌年4月の第1回総会で理事に指名された。同年10月12日、彼は愛媛県松山市での協会主催の講演会において、「国際連盟の精神」と題して講演を行っている。
近衞はこの講演で、パリ講和会議に集った各国は一方では恒久平和を希望しながらも、国家的利己心のため国際連盟は今や骨抜き状態となっているとする。講和会議を実見した立場からして当然の指摘である。しかし、国際連盟が人類の理想からして不完全極まるものであったとしても、これを生み出した根本精神は各方面で芽吹きつつあるという。すなわち、大勢から見れば、「人類の世界が従来の如き暴力を基調とする国際関係より次第次第に正義に依つて律せらるゝ国際組織に進化しつゝある事は争ふ可らざる事実」である。ここからして、国際連盟の精神を理解・体得しなければ国際問題を判断するに際して誤りを犯すことになるとされるのである。
日露戦争後、日本は戦勝の栄光に酔って軍国主義・侵略主義に向かったため、国際社会で孤立状態となった。それを如実に示すのがパリ講和会議であり、日本は「四面敵の重囲に陥つて楚歌を聞くの感」があったという。もはや、中国のプロパガンダに惑わされているとか、日本の急速な発展に対する列国の嫉妬が原因などと言っている状態ではない。日本は光栄ある孤立という痩せ我慢をするのではなく、従来の方針を再検討すべき時に至っているのである。
近衞の考えでは、日本がこれから国際舞台で局面を展開するには、「我国を非難攻撃するに至らしむる原因」の除去が必要である。その中心は参謀本部制度のあり方だとされる。現行の制度では、参謀本部は軍政事項・外交問題に干渉しながら、参謀総長は議会および閣議に対して何ら責任を負うところがなく、また負わせる根拠もない。それは、あたかも二重政府の様相を呈しているかのようである。そのため、今後は軍事と外交の統一を図り、参謀本部を責任政治の組織系統の中に引き入れることが何よりの急務だとされる。しかし、近衞は制度上の問題は枝葉末節であるとし、「要は国民全体が国際関係に対して今少しく進歩的に自覚しなければならぬ」と結論づけている。
以上のような近衞の主張は、「英米本位の平和主義を排す」とは論調が大きく異なっている。以前に見られたような欧米列強に対するよりも、日本軍閥の侵略主義に対する批判が前面に押し出されている。こうした主張は、前年8月の憲法研究会での講話の延長線上にあり、この時期の彼の特徴であると言えるだろう。
1921年12月に召集された第45帝国議会において、近衞は貴族院仮議長に指名された。しかし、12月28日付の『朝日新聞』の記事に見られるように、近衞の指名の過程については貴族院内に異論も生じていた(「仮議長指名問題」)。確かに、院内の最大会派である研究会の支えがなければ近衞の指名はあり得なかった。また、西園寺がこの間に絡んでいたとの見方もある。しかし、世評では近衞の議長ぶりは概ね好評で、新聞では「天晴の一語につきる」と述べるものまであった。将来の大物に対する期待の現れであったと見るべきであろう。
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