国境の町ミャワディの思い出 直井謙二
国境の町ミャワディの思い出
小さなモヤイ川がタイとの国境になっている小さな町、ミャンマーのミャワディ。かつては静かな寒村にすぎなかったが、いまや中国マフィアや日本人詐欺集団、さらにそれを取り締まるカレン族の国境警備隊やタイ警察などが入り乱れる暗黒の街へと変貌した。
初めてミャワディを訪れたのは1988年の夏であった。当時のネ・ウィン政権は企業の大半を国営化し、半鎖国政策を採った。
「ビルマ式社会主義」と呼ばれた経済政策はすでに破綻寸前であった。学生の小さな抗議運動はやがて政権を脅かす全国的な反政府デモへと拡大し、国際ニュースとなった。
バンコクを拠点とする日本の記者もビルマの実情を取材しようと試みたが、取材ビザは一切発給されず、香港のビルマ大使館で申請を試みる新聞社もあったがビザは出ず現地取材は事実上不可能であった。そうしたなかで私が向かったのが、タイ国境に隣接するミャワディだった。穏やかな田舎町だ。
対岸のタイ側メソートは人口10万を超える大きな街で、倉庫を持つ店舗が並ぶ活気ある地域だった。メソートからはボートで川を越えてミヤワディへと物資が密輸されていた。川辺には小さなボートが行き交い多数の人々が往来していた。(写真)

反政府デモの波は、この国境の寒村ミャワディにも及んでいた。宣伝カーが大音量でシュプレヒコールを繰り返し、驚くほど多数の村民が参加する大規模なデモが川向うで展開されていたのである。軍政は「ビルマは平穏である」と繰り返し発表していたが、ミャワディの光景はその虚偽を示していた。私はデモの様子をレポートにまとめ、全国的な抗議運動に拡大した事を確信した。
取材の合間、遠くに見えるテレビアンテナを見て、ビルマが日本と同じNTSC方式のカラーテレビジョンを採用していることに気が付いた。タイはPAL方式で、バンコクの電気店を訪ねたが、NTSCを受信できるテレビは見つからなかった。ふと、子供が日本から持ち込んだゲームに使っているテレビ受像機がNTSC方式だと思い出し、子供に頼み込んでテレビを借りた。
そのテレビを携えてメソートに行き地元の電気店を探した。電気店の親爺さんに頼み込み高い竹竿の先にアンテナを取り付けテレビにつなぐとビルマ国営放送の映像が映し出された。さらにNTSCの録画機も持ち込み,夜のニュースを録画しバンコク行きの夜行バスに預けて運ぶルートを作った。
ところが内容は軍のプロパガンダばかりで、デモの映像もなく役に立たなかった。
やがてソウ・マウン将軍による軍事クーデターが発生し、軍政が復活した。将軍は軍の中でも目立った存在ではなく、姿を映し出す写真や映像の入手は絶望的だったが、価値がないと無視していたメソートでの録画映像の中からソウ・マウンの動画が見つかり、ようやく長い取材の苦労が報われたのである。





