〔42〕満洲国で販売されていた日本式駅弁 小牟田哲彦(作家)

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〔42〕満洲国で販売されていた日本式駅弁

日本では、冷めたご飯や冷たいそばなどが普通の食事として広く受け入れられているが、世界各国と比較するとこれは珍しい部類に入るらしい。日本では、食事を弁当として遠方に携行する習慣が古くから定着していたことに起因するという。朝、家族の弁当を作るときに、温かいご飯をわざわざ冷ましてから弁当箱に詰める段取りは、冷めたご飯もおいしく食べようとする食文化がない地域の人たちには理解が難しいかもしれない。

第2次世界大戦前は日本の統治下にあった台湾では、日本人が持ち込んだ弁当という文化が「便當」という名称とともに今も生きている。とはいえ、現在の台湾の鉄道駅で販売されている駅弁はだいたい作り立てで、ご飯は温かい。冷めたご飯をおいしく食べる習慣が日本人に特有過ぎたからだろう。

同じく日本統治下にあった朝鮮半島、及び日本の権益であった南満洲鉄道が走る満洲国でも、その当時は駅弁が売られていた。下の画像は、満洲国鉄の吉林駅で販売されていた駅弁の包装紙である。「御辨當」という名称からはどんな中身だったのかわからないが、日本国内の駅弁の包み紙と雰囲気はよく似ている。いろんなおかずが少しずつ入っている幕の内弁当みたいなものだったのだろうか。

昭和初期に満洲国鉄・吉林駅で販売されていた駅弁の包み紙

左下の白丸の部分は、製造業者がその弁当の調製年月日を押印するスペースだったと思われる(空欄ということは、この包み紙が未使用だったことを意味する)。鉄路総局直営の構内食堂が販売元であると示されており、「鉄路総局」とは満洲国鉄の運行を管理する満鉄内の組織として1933(昭和8)年から1936(昭和11)年まで存在した組織であることから、この弁当はその時期に販売されていたものと推測できる。それより少し後にジャパン・ツーリスト・ビューロー満洲支部が発行した『満洲支那汽車時間表』の昭和15(1940)年8月号には、吉林駅に鉄道総局(鉄路総局の後継組織)直営の構内食堂があるとの案内が載っている。値段は満洲国の法定通貨である満洲国幣で4角(満洲国幣は1932年の発行当初は銀本位制だったが、1935年以降は日本円と等価になっている)。

こうした構内食堂による駅弁は満洲各地の主要駅で販売されていたようだが、それが日本式の冷たいご飯で作られていた場合、日本人以外の客層に受け入れられていたかどうかは疑問が残る。地元客にも好評だったのであれば、台湾のように戦後も駅弁という旅行文化が残って独自の発展を遂げてもおかしくないからだ。現代の韓国では、かろうじてキムパップ(韓国式海苔巻き)が冷たいご飯で作られて駅弁として売られていることがあるが、中国東北部ではそうしたものも見かけたことがない。食文化の根本的な違いはそう簡単に変わるものでない、ということだろう。


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