近衞に大命降る
1937(昭和12)年1月23日に広田内閣が総辞職すると、組閣の大命は一旦宇垣一成に下ったが、陸軍の強い反発に遭って組閣に失敗する。この過程において、世間や政界では近衞待望説が盛り上がっており、近衞自身も一時はその気になったほどであった。しかし結局は、陸軍の推す林銑十郎が内閣を発足させる運びとなった。
林内閣は2月15日に議会を再開させ、予算案を成立させた後の議会最終日に突如解散した。総選挙によって既存の政党に打撃を与え、一挙に親軍政党を作ろうとしたのである。しかし、政党や国民はこれを「食い逃げ解散」として非難した。選挙の結果は政党の大勝で、内閣の惨敗となった。林内閣は選挙後も居座りを図ったものの、政党側による倒閣運動は激化し、林内閣は5月31日に総辞職するに至る。
近衞を次期首相に望む声が再び高まったびは当然のことだった。5月30日には林首相から近衞に後任を託したいとの電話があった。これに対し、近衞は健康上の理由から受諾を断った。すると、林首相や湯浅内大臣らが陸軍大臣杉山元に後継内閣を組織させようとした。自らの辞職が中国に弱みを見せることを懸念してのことであった。この計画を知った西園寺はこれに強く反対し、原田熊雄に次のように述べた。「陸軍大臣を総理にすることはよくない。どうしてもこの場合近衞を出したらどうか。[中略]事情からいへば気の毒であるけれども、結局どうしても近衞よりほかに適任者がないと思ふ」。
その後、西園寺の意を受けた木戸は山本ヌイ宅にいた近衞を訪ねて説得し、組閣を承諾させた。6月1日、湯浅内大臣は参内して近衞を首班に奏請し、その日の夕刻、近衞は天皇より大命を拝受した。近衞としては、「もはや再び大命を拝辞するは臣下の道ではない」と考えたのである(「元老重臣と余」)。45歳の若き宰相の誕生であった。
6月2日の『東京朝日新聞』は「白面の青年宰相」と題して、近衞のプロフィールを紹介し、首相就任を内閣史上において画時代的であるとして、「これまで幾度かの政変に繰返された『宰相近衞』―それが遂に実現した」と世間の待望論を代弁した。また、同紙に掲載された宮中退出後のインタビューで近衞は次のように述べている。
「……私は性格からいつても、また資格においても経験においても、体力・能力においても自信がないのですが、右ような事情で成敗利鈍を顧みず微力を尽して見ることになりました。組閣方針並に閣僚の人選などについてはこれからいろいろ考へますが、組閣の重点を財政において、特に大蔵大臣の人選に考慮を払ふ積りです。政党との関係についても、私は元来各方面の対立を解消したい決心でゐますから、この方針のもとに党人であらうが官僚であらうが、広く人材を網羅していはゆる協力挙国一致の実を挙げたいと思つてゐます」(「財政に重点・対立解消 近衞公組閣の第一声」)。
近衞は組閣において、前内閣の陸軍大臣と海軍大臣はそのまま留任させ、近衞が最も重視するとした大蔵大臣も結城豊太郎で行くつもりだった。しかし、陸軍の要求で馬場瑛一を入閣させたため結城は就任を辞退し、近衞としては出鼻をくじかれた形となった。
陸軍は馬場の蔵相就任を要求していたが、馬場は広田内閣では軍備拡張予算を組み、増税政策を取ったことで評判を落としていたため、近衞は軍の要求を斥けて内務大臣に据えた。しかし、彼を入閣させたこと自体が、世間の近衞への期待に水を差したことことは否めない。
また、近衞は外務大臣には当初、永井柳太郎を起用する予定であったが、それを知った湯浅内大臣は「これはあまりひどすぎる」と述べたという(「西園寺公と政局」)。永井が外交畑と全く無縁であったからだ。結局、実績のある広田がその地位に就いたが、当時外務省東亜局長だった石射猪太郎は、以前から軍部に唯々諾々と従う広田の姿勢に幻滅しており、この人事には不満だったと述べている(『外交官の一生』)。
6月4日の初閣議においては、財政経済政策の原則として、国際収支の適合、生産力の拡充、物資の受給および調整を図ることの三点が決定された。政府としては統制経済を基調としながらも、これを上から押しつけるのではなく、民間の総意と自由とに基づいて経済の発展を図ることが求められるとした(「新財経策の基調三点」、『東京朝日新聞』号外、6月4日)。そして,閣議後には記者団に向かって近衞は次のように述べた。
……従来のやうな対立相剋を国内で続けて行くのは国外で侮りを受ける。出来るだけ相剋摩擦を緩和して行
きたい。利害による対立、情実、党派因縁による対立は出来るだけ非常時局に鑑みて、各人の自省によつて
摩擦を少なくすることが望ましいことであるし、時代の認識の相違に基く対立は或程度やむを得ないが、今日
の国際情勢、国内社会情勢を真面目に深刻に検討して自分の立場を離れて話合をしたら極端な対立はない。
[中略]自分の漠然たる気持は、国際正義に基く真の平和を確立することに努め、国内では社会正義に基く
施設(ママ)を出来るだけ実施することに努める。今日の如く国内外に改革すべきことは山のやうにある。
一つの内閣で何から何まで片づけることはむづかしいが、全力を挙げ微力を尽して内閣一心同体となつて
小異を捨て大同に就く気持でやつてもらひ度いことを今日の閣議でも話した。兎に角、国民全部手を握つて
革新といふか国家の進運のために力を尽したいといふ気持である」(「全国民一体手を握り国家の進展に尽さ
ん」、同前)。
ここでは相剋摩擦の緩和、国際正義、社会正義に力点が置かれている。しかし、ここで言われる国際正義は、「持てる国」と「持たざる国」との不均衡を正そうとするものであることは明らかである。すなわち、それは帝国主義国家間での勢力均衡論あるいは植民地再分割論の枠を出るものではなかったのである。他方、社会正義は近衞が青年時代に抱いた社会主義や社会問題への関心の名残であるかのように見える(岡義武『近衛文麿』)。なお、同日の夜にはラジを通じてほぼ同じ内容の講演を行っているが、国民の評判は非常によかったといわれている。
近衞内閣に対する評判
後に新体制運動に関わることになる亀井貫一郎は、内閣成立時点では、「露骨に言へば、短命だと思ひます。……各種勢力の各種要求をあの程度で調和することは、不可能です」と語っていた(「近衞内閣の成立を語る」、『東洋経済新報』1937年6月12日)。また、かつて近衞の担ぎ出しを策したことがある陸軍皇道派の荒木貞夫は、近衞をできるだけ支援したいとしながらも次のように記している。「総合するに、近衛内閣は短命なり。公自身も一時安定内閣と称す。本年一杯か。平凡一致内閣なり。期待大なりし丈失望尚大なり。将来右翼団の反対を受くべし。財界の不信用を惹起すべし。軍のロボットにて第二広田内閣又は林内閣の簡抜なり」(「荒木貞夫日記」)。
しかし、以上のような亀井や荒木のような悲観的な見方は少数で、世評は概ね近衛内閣の出現に好意的だった。西園寺は有馬と大谷を入閣させたことを心配していたが、6月15日に原田に向かって「近衞内閣の評判も割合に悪くないやうぢやないか」、「(二人の)評判もさう悪くはないやうだ」と述べている。近衞の身近にいる人ほど心配する度合いは高かったようだ。
近衞の評伝によれば、一般の人気は湧くようだったという。五摂家の筆頭である青年貴族の近衞が総理大臣になり、しかもそれが不人気だった林内閣の後だったことで、新鮮さをもって受け止められたのである。徳富蘇峰は次のように述べたという。
大命の近衞公に降下したるは、黒雲堆裡から日光の閃きを眺めたる如く、近衞がこれを拝受したるは、雲破れ
て日輪踊り出したる如く、而して近衛内閣成立の報は、積雲霽れ来りて青天白日を望む心地を、我等国民に与
えた。我等は実に近衛内閣の前途を祝福する」(矢部貞治、前掲)。
まさに絶賛というほかはない。また、前述のごとく内閣の人事には批判的であった石射ですら次のように記している。
近衞首相は、日本中の人気を湧かし、中国その他の外国からも期待を持たれた。日本一の家柄、西園寺元老の
ホープ、革新思想に富む新人、軍部中堅層に支持者を持つ人、颯爽たる美丈夫、まさに時局待望の首相として
ジャーナリズムがもてはやし、国民が随喜した。内閣の一番番頭に新聞人をかかえたのだから、人気製造は
お手のものだった(同前)。
新鮮さという面から言えば、当時の近衞は貴族院議長という以外に大した政治的経験を持っていなかったのだが、それだけに当時の政治的色彩から超越した独自の立場を持っているかのように見なされ、しかも政党や軍部そして官僚といったものがいずれも忌避されている状況にあって、世間から熱烈さをもって歓迎されたのである。
昭和天皇も近衞の首相就任を喜んでいた。湯浅内大臣は、「近衞公に対する陛下の御信任は頗る篤い」と述べている。天皇は近衞が内閣を組織して以来、機嫌がとてもよく、近衞が前首相とは違って憲法を遵守してくれることを確信しており、就任時には「近衞には憲法の話などしなくてもいいね」と述べたほどであった。また、側近の者は「陛下と近衞の御話の様子を見ても、いかにも陛下が気楽にお話しになつていらつしゃる」と述べており、その関係性のよさを窺い知ることができる(『西園寺公と政局』)。余談だが、後に侍従長となる入江相政の語るところでは、天皇の前で椅子に座って足を組んで話ができたのは近衞くらいだったという(杉森久英、前掲)
この当時、近衞に批判的な姿勢を示したのは、前年に彼の国際ニューディール論を批判していた清沢洌であった。清沢は『日本評論』1937年7月号に「近衞公の思想的背景―心臓は右翼に、頭は自由主義に―」を発表している。
清沢によれば、近衞は「この混迷の時代に、一つのリーダーシップを打ち樹てたい」と願っている。しかし、彼の指導精神は何ら統一したものを示していないと断ずる。確かに、近衞は対外問題に興味を有し、現状打破に強い関心を持っており、それがために起こる戦争も正当化する立場を取っている。だが、これは必然的に軍備拡張という結果を招くことになり、これは彼が軍部と同じ国防国家の建設を志向していることを意味する。ところが、他面においては異なるイデオロギーに立つところの社会主義や議会制度を唱えているのであって、清沢は「こゝに感覚があつて、思想のない二面の近衞を観ることが出来る」と述べるのである。清沢の批判は、リベラルな立場から、近衞の二律背反的な思想の矛盾点を突いたものであった。