1997年7月1日、香港の統治権がイギリスから中国へ返還された。19世紀半ば、アヘン戦争後の南京条約によってヴィクトリア・ピークなどがある香港島が清国からイギリスへ割譲されたのを皮切りに、九龍半島の南部が永久割譲されたり北部が99年間の租借権を認められたりしていたが、「永久割譲」だったはずの地域も含めて、租借期限が切れる1997年に香港全域の施政権を中国へ返還する政治的合意が英中間で成立したことで実現した。香港の一部に期限付きの租借地が含まれていたことが、香港全域の統治権の移譲につながったと言えよう。
イギリスにとってはアジアに残る最後の植民地だったが、第2次世界大戦前の日本の植民地支配については総じて厳しい視線を送る日本のマスメディアが、アヘン戦争という非道徳的な戦争を仕掛けてイギリスが植民地にした香港について同じような注目をすることは少なかった。むしろ、「中国に返還される前の現在の香港」の様子をテレビはじめマスメディアが頻繁に取り上げ、それが「返還前の香港を体験しよう」という香港旅行ブームにつながっていった。
私も、そんな時期に洪水のような香港関連の報道や旅行情報に心を動かされて、短期で英領香港を訪れたミーハー日本人旅行者の一人だった。当時、日本から香港への格安航空券は総じて値上がりしており、ホテル料金に至っては、返還直前期には通常時期より平均して3倍も高くなる異常事態だった。
もっとも、当たり前の話だが、観光客が短期間に見聞しただけの現地の様子が、為政者の交替によってガラリと変わるわけではない。中国返還後に英語の使用が禁止されたり、香港ドルが廃止されて人民元だけが使えるようになるわけではないし、メインストリートの名称が皇后街(Queen Street)からいきなり人民路になるわけでもない。香港のレストランの味が急に変わることだってもちろんない。市街地の低空飛行が名物と化し(画像参照。着陸直前のキャセイ・パシフィック航空機を真下の市街地から見上げたところ)、世界一着陸が難しい空港とまで言われたカイタック(啓徳)空港は返還翌年に閉鎖されたが、それ自体は施政権の返還に起因するものではない。
それでも、金銭的な余裕があるわけではない学生時代に、あえて短期間でも香港に行こうと考えたからこそ、その後の中国統治下の香港への訪問のたびに、英領時代の香港訪問の経験がオーバーラップする。同じ場所の定点観測によって時の流れの変化を視覚的に感じるのは、旅の楽しみ方の一つである。オリンピックや万博のような一過性の短期集中イベントが開催されないのに、1年以上にわたって海外旅行先としての人気度をふだん以上に高め続けた香港返還ブームは、大勢の日本人旅行者に、後年の定点観測のチャンスを提供したことになる。ブームから4半世紀が経ち、英領時代の香港を思い出しながら比較の視点を持って街歩きをするには、ちょうどよい長さの期間が経過したと言えるのではないだろうか。
《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回
《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》次回
《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》の記事一覧