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〔13〕昭和15年の写真付き北京観光案内 小牟田哲彦(作家)

〔13〕昭和15年の写真付き北京観光案内 小牟田哲彦(作家)

〔13〕昭和15年の写真付き北京観光案内

戦前の旅行ガイドブックの代表格と言える『旅程と費用概算』には、日本列島内部のみならず台湾や朝鮮、満洲など、いわゆる「外地」と呼ばれた日本の勢力圏内の観光地も対象としていた。厳密にいえば満洲は外国だが、その満洲の主要交通機関である南満洲鉄道(満鉄)は日露戦争によって獲得した日本の権益だったため、鉄道利用時は日本国内と同じような言語・通貨の空間が成立していた。

そうした日本の権益地以外で同書に早くから掲載されていた外国の観光地の一つが、北京である。昭和10年代初めまでは「北平」という旧称で案内されていた。

戦前の旅行ガイドブックは基本的に文章や図表ばかりで構成され、モノクロ写真は本文間の口絵扱いで数カットが載るだけ。そのため、写真が載る観光地は本文のうちごくわずかなのだが、昭和15年版の『旅程と費用概算』を開くと、北京関係では「萬壽山」と「萬里の長城」の2カットが採用されている(画像参照)。さすがは中国最大級の都市であり長い歴史を有している北京、とも言えるが、当時の万里の長城は北京郊外の観光地としてではなく、満洲側の山海関からアクセスする観光地として紹介されていた。

同書による万寿山の紹介は、「清朝の離宮として名高く一名頤和園とも呼ばれ、元明時代の景勝地とされて居たのを約二百年前清の乾隆帝が改造したのを後年西太后が巨費を投じて大改修を加へた」となっている。アクセス方法としては、バス代と途中の入場施設の入場料込みで1人4円と料金設定された「北京名勝遊覧バス」の第1コースの中に「萬壽山」の名が見られる。朝9時に東華門を出発し、紫禁城などを経由して後半の行程で万寿山に到達するスケジュールだ。また、万寿山まで単純往復する「京香コース」という遊覧バスが、1日12往復運行されている、とも記されている。

当時の北京市内外の交通機関は、「市内はハイヤー、バス、人力車、電車等で、天津と同様馬車は見受けられない」とのこと。ここでいう「電車」とは路面電車のことと思われる。電車の運賃は1区間3銭、バスも1区間3銭と同額だが、乗車区間が隣の区域へ跨ると5銭、7銭と運賃も上がる。「ハイヤー城内1乗車1円半くらい」とあるから、現代のバスや電車の初乗り運賃とタクシーの初乗り料金の差異と比較すると、当時のハイヤーやタクシーが現代よりもはるかに贅沢だったか、もしくはバスや電車など公共交通機関の運賃が意図的に低く抑制されていたのかもしれない。ちなみにこの『旅程と費用概算』の定価は2円50銭だったので、ガイドブック1冊は北京のハイヤーよりさらに高かったことになる。

同書が刊行された昭和15年は、北京郊外で発生した盧溝橋事件をきっかけに日中間で軍事衝突が起こってから3年目にあたる。その時期の北京に、同書を手にした観光客が実際にどの程度いたのかはわからないが、少なくとも、一般の観光客がのんきな物見遊山気分で訪ねていける環境が整っていたらしい、ということは窺える。

《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回
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