第371回 イワシの刺身のお値段 伊藤努

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第371回 イワシの刺身のお値段

昔、タイの首都バンコクに駐在していた折、諸事情で単身赴任だったこともあって、仕事を終えた後の夕食は、取材先などとの会食でもない限り、幾つかの行きつけの日本レストランにお世話になった。そのうちの一つが、日本人の板前さんとタイ人の奥さんが店を切り盛りしていた居酒屋兼寿司屋のM店だった。M店で注文し、食べた料理は数えきれないが、忘れられないのが東南アジアのタイでは味わう機会がまずないイワシの刺身だった。

ご存じのようにイワシは漢字では「鰯」と、「魚」へんに「弱」と書くことからも分かるように、漁獲後の傷みが早いため、鮮度を保つのが難しい魚の一つだ。バンコクは日本人ビジネスマンの駐在員とその家族など、今も5万人前後が居住する大都会で、そうした客層を狙った日本料理店も数多い。ラーメン店のほか、刺身や寿司といった日本食の定番メニューに対する需要も多く、東京の築地市場から空輸される日本産の新鮮魚介類は相当な種類に上る。

ただし、タイの近海でもイカやアジ、エビ、貝などの魚介類は取れるので、輸入ものはタイでは調達できない北方系の魚類ということになる。イカの刺身などは日本より格段に安く、モンゴウイカの口当たりや味も上々だ。輸入ものはマグロ、ブリ、カツオ、タイ、サンマ、タコなど和風料理に欠かせない主だったものはそろっているが、日本では大衆魚の位置づけのイワシは対象とはなっていない。

しかし、行きつけのM店のご主人は客に新鮮なイワシの刺身も食べさせたいとのことで、築地市場から新鮮なイワシをわざわざバンコクに空輸で取り寄せ、客に提供していた。値段はマグロのトロよりも高く、イワシ一匹の刺身は500バーツ(約1500円)だったと記憶する。航空機運賃が上乗せされているためだ。

春はイワシが旬の季節というわけか、先日、自宅近くのスーパーマーケットでは二匹分の刺身パックが400円程度で売られており、バンコクでの食の思い出も蘇り、早速買い求めた。ショウガ醤油で味わうイワシの刺身は久しぶりのせいか、食べ慣れている値段の高い他の刺身よりも珍味に思えた。イワシと同じ青魚のサンマもそうだが、鮮度が落ちるのが早い魚は生食ではなく、焼くか煮るかの料理法が定番だった。しかし、最近は日本各地の漁港で水揚げされた後、大型冷凍車で都会の大市場に短時間で輸送できるようになったため、鮮度は保たれ、刺身で売ることが可能になった。

遠くタイまで運ばれ、高級魚扱いとなったイワシと、自宅近くのスーパーで買った大衆魚のままのイワシ。人間の都合で値段が違うだけで、味はほとんど変わらなかった。

 

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