第135回 シベリアに残る日本人抑留者の足跡 伊藤努

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第135回 シベリアに残る日本人抑留者の足跡

日中戦争と太平洋戦争の末期のどさくさに紛れて、当時のソ連軍が1945年(昭和20年)8月、中国東北部の満州に電撃的に侵攻し、60万人近い旧日本軍将兵や軍属をシベリアに強制連行、その後、長い場合は十年余りも各地に抑留したソ連によるシベリア強制抑留問題について調べ、論文にまとめたことがある。5年ほど前のことだ。筆者が担当したのは大部な歴史記録文書のごく一部だが、多くの参考文献や抑留体験者の方々の膨大な記録集などを読みながら、満足な食料もなく、凍土のシベリアで多くの日本人が筆舌に尽くし難い日々を送ったことや、病気や栄養失調、酷寒の寒さなどで非業の死を遂げたことに何とも言えない怒りを感じたものだ。

担当する論文を完成させる直前に、現地を視察する必要もあるということで、ロシアの専門家で大学教授のA先生と一緒に、ハバロフスクを拠点にしてシベリア各地を訪問した。視察先は、抑留された旧日本軍将兵や軍属の人たちが重労働に駆り出された木材積み出し施設やレンガ工場、水産加工場のほか、建設作業で完成させた文化劇場、ソ連軍将校家族向けの官舎などさまざまだった。大半が建築などの専門家でもない日本人が過酷な条件下で見事な建物や住宅をつくっていたことに深い感動を覚えた。

当時は戦争直後の混乱期で、大した建設機械もなく、資材が乏しかったにもかかわらず、建築から半世紀以上がたっても、傷みの少ない堅牢な建物ばかりだった。地元のロシア人にも、市内にあるどの建物が日本人抑留者の手になるものかすぐに分かるといい、物づくりの伝統は日本人に脈々と受け継がれているということだろう。

滞在中、シベリア鉄道にも乗り、シベリアの原野の広大さや森林の大きさを実感したが、同行したガイド役のロシア人の旅行会社社長からはウオツカの飲み方や、酒の肴のイクラ、キャビアの食べ方を教わった。強面の一方で、人懐こいロシア人の性格の一端を見た思いだった。

行きは新潟空港からハバロフスク、帰りはハバロフスクから新潟空港という経路だったが、行き帰りのロシアのアエロフロート機には、とてもビジネスマンには見えない中年の日本人男性とショーダンサーのような若い金髪のロシア娘がたくさん乗り込んでいた。ロシア事情に詳しいA先生はこうした人種の素性や旅行の目的を察していたが、シベリアの地に眠る強制抑留の犠牲者はどんな思いかと想像し、唖然とした。シベリア強制抑留の歴史などにも関心がないに違いない。日本人もいろいろである。

 

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