第549回 ボート競技をめぐる幾つかの奇縁(上) 伊藤努

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第549回 ボート競技をめぐる幾つかの奇縁(上)

この世の中には、長い人生で経験することのないスポーツは数えきれないほどあるが、ボート競技もそのようなスポーツの一つかもしれない。だが、半世紀ほど前に入学した東京の小さな単科大学では、毎年6月に新入生を歓迎する学内ボート大 会が恒例行事として開催されており、大学1年のときに同じ学科の友人グループ と参加したことがある。大学は当時、都内の北区にあったが、大学の体育会・漕艇部(ボート部)の合宿所と艇庫が埼玉県の戸田漕艇場(ボートコース)にあり、初めて体験するスポーツということで、授業が終わった午後に仲間と連れだって電車を乗り継いで何度か戸田通いをした。大学での伝統行事となっていたのは、新入生歓迎会の一環として、ボート大会に参加することで親しい友人関係をつくってもらいたいという大学側の配慮もあったようだ。新型コロナ禍の影響で、大学に満足に通えない現在の学生からすると、何とも恵まれた環境だったことかと感慨深い。

新入生歓迎ボート大会

初体験の4人乗りボート競技のコーチ役は大学漕艇部の猛者たちで、このときの何度かの体験練習と本番の大会でのわずかの期間の経験を通じ、競技参加者の能力もさることながら、息を合わせてオールを漕ぐチームワークの大切さを知った。それ以上に今なお強く記憶に残るのは、この競技が漕ぐ力という肉体を酷使するだけでなく、長いオールを常に一定に操作しないと、オールを水面からうまく戻せず、「腹切り」と呼ぶとんでもないトラブルが起きることだ。日々練習している漕艇部員クラスの上級者になると、「腹切り」などという「へま」は絶対起きないが、ボート競技の初心者にとっては誰もが経験する通過儀礼でもある。コントロールを失った堅い木材のオールが水の力で腹部に食い込むのだから、衝
撃と痛さは相当なものになる。

このときのボート競技への参加を呼び掛け、筆者ら同じクラスの4人を誘ったのは、1年前に入学したものの、必修語学の単位が取れずに落第し、もう一回、同じ1年生組のクラスで机を並べたA氏で、「一生にたった一度の経験」という誘い文句につられてボート仲間となった。残りの4人は、まだ知り合ったばかりなのに、妙にウマが合ったという勉強一筋というタイプではない級友だった。このうちの二人は同じ県内の公立高校出身という同郷のよしみもあったかもしれない。奇縁というしかないこのボート仲間とは後々まで、大学近くのA氏の安下宿などに集まっては麻雀など勉強外での付き合いが続いた。このときのボート仲間には、同じ大学ながら別の学科の女子学生(2年生)が紅一点として加わったが、筆者らより1年先輩のこの女子学生がたまたま、1年浪人して入学したK県の公立高校の同級生だったというのも何かの縁だろう。余談ながら、A氏とこの女友達は大学卒業後に結婚することになる。学生時代の懐かしい思い出の一つだ。

筆者とボート競技の体験を思い出話として紹介させていただいたが、高校時代の硬式野球部の先輩、後輩にも何人か、ボート競技では大学同士の対抗戦や大学選手権などでトップクラスの私立のW大学漕艇部で活躍している。そのうちの一人、野球部後輩のS君は難関のW大に入学したものの、大学でのキャンパス生活になじめず、高校時代の恩師と相談の上、やはり野球部OBでW大漕艇部で活躍した先輩のOさんを恩師に紹介してもらい、その場で漕艇部への入部を決めた。

学生数が多いW大の漕艇部では合宿生活と厳しい練習の日々が待ち受けていたが、大柄のS君は見事に正選手となり、充実した大学生活を送ったようだ。S君は筆者の母校野球部が夏の県大会でベスト4まで勝ち進んだチームの4番バッターで3塁手という攻守の要にいた。しかし、幼い頃から難聴という障害を持っており、そのためか声の発音にハンデがあり、そうしたことを克服した上での中学・高校の野球、大学のボート競技での活躍だった。今なお続く新型コロナ禍が終息した暁には、後輩のS君からボート競技の難しさ、面白さの一端を聞いてみたい。(この項、続く)

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