2013年1月9日、霞山会恒例の新年会が、霞が関の霞山会館で開かれ、近衞忠煇新名誉会長が挨拶にたった。
乾杯のあと宴に移ったが、新名誉会長の周りには常に人が集まり会話が弾んでいた。筆者もわずか5分程度だったが、四半世紀ぶりに思い出話をさせていただいた。
1980年代の半ば、ベトナムのホーチミン市にあるツーズー病院で結合双生児ベトちゃん、ドクちゃんに初めて会った時の衝撃は今でも脳裏に焼き付いている。無邪気に遊ぶ二人のあまりに酷い運命に言葉を失った。
86年、ベトちゃんが脳に障害を起こし、当時医療レベルの低かったベトナムでは治療は不可能だということで東京渋谷の日赤医療センターに支援が要請された。日赤医療センターは外事部長だった近衞氏をリーダーに4人の医師をベトナムに派遣した。(写真)当時バンコク支局勤務をしていた筆者はホーチミン市に出向いて猛暑のツーズー病院にはり込み、近衞氏を含め連日取材活動を続けていた。
ベトナムの医師はベトちゃんに対しベトナムの宗主国だったフランス製の薬品を投与していたが、日赤医療チームが治療に当たるようになり日本製の薬品に切り替えたところ、ベトちゃんの様態は大幅に改善された。しかし根本治療をするためには日本へ移送するしかなかった。近衞氏をはじめとする関係者の努力が実り、ベトナム戦争後初めて日航機がホーチミン市のタンソニュット空港に乗り入れることになった。長い間、飛行実績もなく劣悪な空港設備を前に日本航空も苦労したが、まだ米軍のファントム戦闘機の格納庫が残る空港に大型機が無事着陸した。
日本での治療を終え、ベトちゃんドクちゃん二人はベトナムに戻ったが、ベトちゃんの回復が思わしくなく、ツーズー病院側は二人の分離手術を行うよう再度日赤医療センターに要請してきた。
だが、日赤医療センターはふたつの大きな問題を抱えることになった。日赤医療センターにとってはベトナムの結合双生児だけが解決すべき医療問題ではないこと。もうひとつは二人が共有する臓器をどう分けるのかという倫理的な問題だった。結局、日赤医療センターは麻酔科の医師だけを派遣し、分離手術はツーズー病院の医師の手で行われることになった。
分離手術は17時間にも及んだが無事に成功した。手術室からガラス越しに報道陣に向かって執刀医のアー医師と主治医のフォン博士がうれしそうに成功のサインを送っていた光景も忘れられない。
その後ベトちゃんは意識を回復することなく亡くなったが、ドクちゃんは成人して結婚し男女の双子をもうけた。子供の名前は富士山と桜にちなんで、男の子はグエン・フー・シー、女の子はグエン・アイン・ダオと名付けられた。最良の結果の陰には近衞氏の粘り強い努力があった事を忘れてはならない。
写真1:空港でフォン主治医(右)らの出迎えを受ける近衞氏
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