第8回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

カテゴリ
コラム 
タグ
News & Topics  霞山会  近衞文麿とその周辺 嵯峨隆 

貴族院副議長に就任する

 1931年1月16日、近衞は貴族院副議長に就任した。前任者の蜂須賀正韶の任期満了によるものだったが、近衞を推薦する人脈工作は前年の12月からあった。西園寺や原田熊雄らが近衞の内諾を取り付けて、議長の徳川家達および政府に意向を伝えて同意を得ていたのである。近衞としては、「自分は副議長を希望して居る訳には非ず。将来議長になつて見たい」と考えていたのだが、それへの前段階として彼らの提案を受け入れたのであろう。

 近衞は副議長就任後、徳川の呼びかけで組織された貴族院制度調査会に加わり委員長に就任している。委員は各会派から3名づつが選任された。第1回会議は1931年5月8日に開かれ、同年11月5日までに6回開催されており、その間に小委員会を3回開いている。

 調査会は単なる議事制度の議論にとどまらず、その改革の矛先は研究会の伝統である決議拘束制にも向けられた。すなわち、それが治安警察法第7条の「結社ハ法令ヲ以テ組織シタル議会ノ議員ニ対シテ其ノ発言表決ニ付議会外ニ於テ責任ヲ負ハシムルノ規定ヲ設クルコトヲ得ス」に抵触すると批判したのである。これに対して研究会側は、自分たちは政治結社ではないなどとして強く反発した。

 第2回会議では火曜会、公正会、同和会から研究会の決議拘束制が治安警察法違反であるとの意見が提示された。また、内務省警保局も見解を表明し、研究会は結社であるがゆえに治安警察法の適用を受けるとして、第7条に違反するとはしつつも、第7条に対する違反には罰則規定がないため、同会を罰する必要はないとした。

 第3回会議でも上記3会派が同様の主張を行ったため、調査会の本来の目的である貴族院の改革問題から外れて会派間の反目となった。そのため、委員長の近衞は研究会の問題は小委員会に移すことを提案し、併せて本筋である貴族院制度そのものを討議する必要があると述べている(『貴族院会派〈研究会〉史・昭和篇』)。しかし、間もなく満洲事変が勃発し、貴族院改革についての世間の関心が弱まる中、調査会の活動は停滞に陥り、さしたる成果をあげることはなかった。

満洲事変への対応

 1931年9月18日、満洲事変が発生した。すでに陸軍の動向に注目していた近衞は、事変直後から木戸や原田と連絡を取り、各方面の情報を持ち寄り善後策を検討している。彼らに共通する認識は、満洲問題についての軍部の決意は固く、政府からの命令を徹底させることができないだろうというものだった(『木戸幸一日記』)。

 大陸での軍事衝突が拡大していく一方で、国内ではクーデターの発生が危惧された。そこで、近衞、木戸、原田は10月1日に会合を持ち、軍部の陰謀の有無について意見を交わした。彼らの結論は、「陸軍中堅分子の結束頗る強く、昭和二年頃よりの計画にして、政党を打破し一種のディクテーターシップにより国政を処理せむとの計画なるが如く、実に容易ならざる問題なり」というものだった(同前)。軍部は国内改革を企てているが、それには宮内省の改革も含まれているということだった。事を案じた近衞は、木戸とともに一木宮内大臣、牧野内大臣を訪ねて情報を伝えるなどしている。

 10月17日、クーデター計画が発覚し、参謀本部の橋本欣五郎らが憲兵隊に保護検束された。調査によれば、それは「或は麻布の連隊の或る大尉が少尉九人ばかりを集めて、側近即ち内大臣、宮内大臣、侍従長等を暗殺して二重橋の前で腹を切つて死ぬとか、或はそれ以外に政党の連中を殺すと、殊に今の内閣の若槻、幣原、井上、安達といふ連中を殺さうといふ計画だった」(『西園寺公と政局』)。十月事件と言われるものである。木戸はこの日、「実に驚くべき事実なり」と記しており、計画が彼らの想定を大きく越えるものであったことが分かる。この後、近衞と木戸らは政界再編へ関心を向けるようになる。

 11月7日、近衞は自宅で木戸、原田、伊藤文吉(伊藤博文の養子で貴族院議員)と時局について意見を交換した。木戸の記すところでは、「現内閣、殊に総理は全く無気力にて、到底此の難局を負て来議会に臨むの見込なく、何等かの機会を作り政局転換を作する要あり」とされている。ただし、後継内閣については政民連立がよいのか、あるいは宇垣一成を際立たせて挙国一致内閣がよいのかは問題となるという結論だった。しかし、第二次若槻内閣は安達謙蔵内相の造反もあって一挙に崩壊に向かい、12月13日に犬養毅内閣が成立することになる。

 国維会への加入

 1932年に入ると、近衞はそれまでの政党内閣への期待を捨て、国家主義的傾向を強めていく。国維会への加入がそのことを示している。国維会は1932年1月、日本精神による国政革新を目指す団体として設立された。主宰者は陽明学者として著名な安岡正篤であり、近衞は理事に就任した。

 機関誌『国維』創刊号(1932年6月1日)には「国維会の趣旨」が掲載されている。そこでは国際・国内情勢の行き詰まりを指摘した上で、「不肖等此の情勢を座視するに忍びず、自ら揣らずして奮然身を挺し、至公血誠の同志を連ね、敢て共産主義インターナシヨナルの横行を擅にせしめず、排他的シヨーヴイニズムの跋扈を漫にせしめず、日本精神に依つて内・政教の維新を図り、外・善隣の誼を修め、以て真個の国際平和を実現せんことを期す」と述べている。

 国維会の活動は研究と啓蒙が中心であった。だが、同時に資金を調達して大掛かりな国政革新の運動を展開しようとしており、その意味で国維会は啓蒙運動団体であると同時に、実践運動団体としての指向性も持っていたとされる(河島真「国維会論」)。

 国維会は満洲事変を歓迎する中で成立したものである。そのため、『国維』には内政問題だけでなく、日本が大陸問題に積極的であるべきだとする記事も掲載されている。しかし、近衞の言説を見れば、は1932年初頭段階ではそうした考えは表明していなかった。例えば、同年1月に発生した第一次上海事変に際して近衞は、「満洲問題の幸に好転し各国の印象も悪しからざる今日、国際関係の最も複雑なる上海に於て事を構ふるは極めて不得策なりと思ふ」と述べ、また大角岑生海相に対しては出兵について再考すべきではないかとの意見を述べていたのである(『木戸幸一日記』)。恐らく、近衞はこの後、急速に積極論者へと転換していったものと思われる。

 当時の近衞の思想傾向を示すのが、『国維』第8号(1933年1月1日)に掲載された「真の平和」と題する論文である。ここで近衞は、従来の姿勢を一変させて国際連盟を全面否定している。近衞によれば、世界大戦における犠牲の多大さゆえに、戦争を絶滅させようという思いが世界的に湧き起こり、それが国際連盟や不戦条約という形となって現われた。しかし、それらは真の平和を実現する力とはなり得なかったと言う。

 戦争を絶滅させるためには、戦争の原因となるものをまず除去しなければならない。その原因は種々あるが、「領土の不公平なる分配、人種及言語より見たる不自然なる政治的境界、重要原料の偏在等」がその主なるものである。しかし、国際連盟や不戦条約はこうした原状を固定化させるためのものであり、先進国に好都合の「平和」を持続させるものでしかない。真の平和は、戦争の原因である不合理な国際間の現状を調整・改善することによってのみ実現し得るのである。それは「資源公開」と「人種平等」の二大原則によって可能となるとされる。

 しかし、毎年百万人近い人口増加によって経済的困難に陥っている日本は、漫然とこの二大原則の実現を待ち続けているわけにはいかない。これこそ、日本が「万難を排して満洲に進出を企図せし所以」なのである。現在、日本の行動は国際連盟によって批判されているが、近衞は「真の平和を妨げつゝあるものは、日本に非ずして寧ろ彼等である」として満洲事変を正当化した。ここには、「英米本位の平和主義を排す」で示された生存権の主張を見て取ることができる。

「持たざる国」の結集

 1933年1月26日、大亜細亜協会の創立委員会が開かれた。近衞は発起人の一人であった。創立大会は満洲国建国の日である3月1日に開催された。同会の趣意書では、「亜細亜は、文化的にも、政治的にも、経済的にも、地理的にも、はた、人種的にも明らかに一個の運命共同体である」とされた。そして同会は、現在の欧米列強による支配を脱却して、アジアは1つという本来の姿に回帰すべきで、満洲事変と満洲国の建国はその実現の契機になると主張した。大亜細亜協会はアジア連盟の創設を構想していたが、それは多分に国際連盟への対抗を意識したものであった。果たして、日本は3月27日に国際連盟を脱退し、これを機に近衞は国際連盟協会の理事を退任することになる。

 1933年2月、近衞は「世界の現状を改造せよ」と題する論説を発表した。これは、当時の彼の持論である「持てる国」と「持たざる国」との対立・矛盾という観点から、満洲事変を積極的に肯定したものである。近衞は欧米各国の主張する平和が、「感傷的平和主義であり、似非平和主義である」と指摘する。なぜなら、それは戦争を引き起こす原因を除去しようとせず、自分たちの利益の保全だけを考えるものだからである。連合国の政治家たちは、先の大戦を平和主義と侵略主義、正義と暴力、善と悪の戦争だとして、自分たちは正義の味方だとするが、これは極めて狡猾な論法だとする。そして、近衞はこの論説の末尾の部分で次のように述べる。

 「今や欧米の輿論は、世界平和の名において日本の満蒙における行動を審判せんとしつつある。……しかれども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。真の世界平和を希望する事においては、日本は他のいかなる国よりも多くの熱意を持って居る。ただ日本はこの真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来において実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」(『清談録』所収)。

 この論文の内容と趣旨は1ヵ月前の『国維』に掲載された「真の平和」の延長線上にある。ただ、『国維』が官僚や議員、実業家、学者を対象としていたのに対し、今回の論文は当時の代表的な大衆娯楽雑誌『キング』に掲載されていた点には注目しておきたい。近衞の論説は大衆的媒体を通すことで、「持たざる国」の連合=アジア連盟による欧米への対抗、そして日本を中心とした新しい国際秩序の形成という考えを、より広範に社会に行き渡らせる役割を果したと考えられる。


《近衞文麿とその周辺》前回
《近衞文麿とその周辺》の記事一覧へ

###_DCMS_SNS_TWITTER_###

関連記事

国境の町ミャワディの思い出 直井謙二

〔42〕満洲国で販売されていた日本式駅弁 小牟田哲彦(作家)

デフレ不況脱出に向け期待された4中全会でバラ色の未来方針はなく、人事もなかった 日暮高則