第7回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

初期の政治活動(2)
研究会への加入
1922年9月26日、近衞は研究会に加入した。研究会とは貴族院の子爵議員を中心とする会派で、院内で最大の勢力であった。しかし、近衞は貴族院改革を唱えており、研究会は改革されるべき対象の1つだと見られていた。そうだとすれば、彼の主張と行動は矛盾するのではないかという疑問も生じる。だが、近衞が述べるところでは、研究会加入には2つの理由があった。その第1は、自らの主張を実現するには多数派の力を借りるのがよいと考えたことである。第2の理由としては、研究会は概ね歴代の政府を支持することをもって方針としてきたことが、自らの考えと一致していたためだとしている。
1924年1月、清浦奎吾内閣が成立するが、これは貴族院議員を中心とした内閣であり、事実上の研究会内閣と言えるものであった。然るに、近衞は研究会が党議として清浦内閣を擁護するというなら直ちに脱党するとの姿勢を示した。その上で、「貴族がその特権を濫用して国政に権力を揮うが如きは慎まなければねばならぬ」として清浦内閣への不支持の態度を表明した。結局、清浦内閣は5月10日の総選挙で大敗し6月に総辞職することとなる。この1ヵ月の間、西園寺公望が政局の中心となり、多くの政客が西園寺のもとを訪れると、近衞はその差配に当たり、西園寺の見解などをマスコミに流すなどして、自らの存在感を高めていった。
このような状況の中で、5月31日、近衞は研究会の筆頭常務委員となった。これには西園寺の意向が働いていたという。6月11日に加藤高明が首相となると、翌日、彼は近衞を自宅に招き、「内外時事の重大なることを説いて、貴族院の多数派なる研究会の諒解を得」るよう依頼した。近衞はこれを了承した上で、「普選案に対しては貴族院は反対すべき筋合のものでもなく……若し研究会が反対の態度をとるやうであつても私は賛成の態度をとらうと思ふ」と答えている(『朝日新聞』6月14日)。近衞は研究会と政府の橋渡し役となったのである。
貴族院改革問題
加藤内閣の課題の1つに貴族院改革があった。近衞は早くからこの問題に多大な関心を寄せており、1924年12月に『上院と政治』という著書を上梓している。同書は欧米諸国の上院の実情を詳しく紹介したもので、貴族院改革に資すべく書かれたものであった。制度改革に当っては、近衞は加藤に協力して積極的に活動した。しかし、翌年の第50議会での貴族院令改正が小規模なものに留まったことは、近衞には不満なことであった。
1925年11月、近衞は『大阪毎日新聞』および『東京日日新聞』に論説「我国貴族院の採るべき態度」を連載し、翌年にはこれをまとめて小冊子として出版した。この論説はイギリスの両院関係を踏まえた上で、日本の政治の円滑化のために貴族院は如何にあるべきかを論じたもので、前年の『上院と政治』での考察を具体的提言にしたものである。
近衞によれば、両院の対立を回避する1つの方法は、イギリスのように貴族院の権限を縮小することである。しかし、このやり方では両院制の存在意義を希薄にするため賛成できないとする。日本の貴族院の権限は、どこまでも衆議院と対等でなければならない。しかし、その法的地位は衆議院よりも遥かに強固であるため、権限を振り回して衆議院に迫ることがあればこれを防ぐ手段はない。そうだとすれば、両院の衝突を防ぐには貴族院の自制以外にないということになる。
また近来、貴族院の政党化を唱える者があるが、現行制度下ではこれは好ましいとはいえないとする。なぜなら、政党化が進めば政府与党の多数を占める衆議院と正面衝突する危険性があるからである。衆議院において多数党およびこれを基礎とする政府は、原則として国民の意志を代表するものであるから、その意志を尊重するのが代議政治の本旨である。だが、国民の意志が政府・与党を離れた場合は、貴族院はこれに譲る必要はない。これに反対し敗北させればよいのである。
貴族院が衆議院の牽制機関となることには誰も反対しないだろう。しかし、近衞は次のように言う。「貴族院が若しその存在の理由を主張することに余りに執着して、その為には両院の衝突も辞せぬといふが如き態度を採る時は、結局右の如き政治的陰謀に利用せられて、その思ふ壺にはまるやうなもので、これ程愚なことはあるまい」。近衞は結論として、「我国の貴族院の採るべき態度は、よしその存在の理由を幾分薄弱ならしめる所はあつても、両院衝突といふ如き事態は、出来るだけこれを避けることでなくてはならぬ。是れ実に我国に於ける、両院制度の運用を円滑ならしむる所以である」と述べている。
近衞のこの論説には、吉野作造が『中央公論』1926年1月号に「近衞公の貴族院論を読む」を書きコメントを加えている。吉野は若干の異論を提示しながらも、両院関係のあり方についての近衞の提言に対しては全面的に賛成するとし、近衞の議論は既存の政治家からは書生論として批判されるかもしれないが、政治学者の立場からすれば「近代精神の要求に通じた至当の明論である」と評価したのである。
火曜会の結成
この間、近衞は研究会から次第に離れ始めていた。近衞は後に、加藤高明が急逝した後、研究会との意見の不一致がしばしば生じるようになり、若槻内閣が倒れ田中内閣が成立する頃には会からの離脱を考えるようになったと記している(「貴族院改革と現行制度の運用」)。この間の1926年11月、研究会の常務委員が改選されたが近衞は選出されず、新しく設けられた相談役という閑職に据えられた。そして、1927年11月12日、近衞は研究会を脱会する。この時、一条実孝ら公侯爵議員5名が行動を共にした。
研究会離脱後の11月28日、近衞は細川護立と会見して新団体に関しての協議を行い、まずは社交団体を設立することとし、毎週火曜日に例会を行うこととしたことから会名を「火曜会」とすることなどを決定した。翌29日、火曜会は華族会館で発会式を行った。
火曜会が社交団体として出発したことには2つの理由が挙げられる。第1は、院内交渉団体であるためには会員が25名以上であることが必要とされていたが、それに満たなかったことである。第2は、近衞に政治的野心があるのではないかとの外部からの懸念があり、近衞自身が慎重な態度を採ったからだとされる(尚友会『貴族院の政治団体と会派』)。しかし発足してみると、そうした不安がないことが分かり、1928年1月24日の総会で火曜会を政治団体とする方針を決め、同月31日に議会事務局に届出を行い、これと同時に「世襲議員の本質に鑑み厳正中立を期す」との声明を発表した。
1928年5月から翌年3月にかけて、水野文相優諚問題という政界を揺るがす政治スキャンダルが発生した。これは、田中義一首相の閣僚人事に反対する文部大臣・水野錬太郎が辞表を提出したが、後に天皇からの遺留を求める発言を受けて辞表を撤回したことから、天皇の政治利用だとして政府への抗議の声が上がり、第56議会における貴族院では首相に対する問責決議案が可決されるに至ったというものである。この過程において、火曜会は強硬な姿勢を採っており、近衞は決議案の可決に尽力している。
「エドワードグレーの風格」
1930年5月、近衞は雑誌『キング』に「エドワード・グレーの風格」と題するエッセイを発表した。これは、政治家の理想像はどうあるべきかについて語ったもので、近衞の文章の中では異色のものである。
エドワード・グレー(Edward Grey)はイギリスの自由党の政治家であり、1914年8月の下院議会においてドイツのベルギー侵犯を非難し、イギリスの第1次世界大戦への参戦を説いた人物である。近衞は彼を「英国政治家の中でも、学識教養共に高く、その生活も非常に雅趣に富んでいる」と評価する。
近衞はグレーがハーバード大学で講演した際に、政治家にとって最も必要なこととして「静養」を挙げたことを紹介している。「静養とは、心身の気力を恢復しつつ、品格を高めること」だという。そして、「グレーの如きは、すべての人の模範となるべき人物ではないかと想われる。彼の生活を見れば見る程、ことごとく真の政治家として具うべき理想の条件を具えている人の如く想われる。そしてかかる政治家の多く存する国では、その政治も清淨である筈だと、痛切に感ずる」と述べている。
このように、近衞は政治家の理想像を人格や教養・気品との関連で捉えており、権力の獲得や運用に関わる能力はむしろ斥けられている感がある。近衞自身も理想的な政治家に近づきたいと望んでいたことを示すものであろう。
東亜同文会での活動
さて、近衞は父・篤麿の後を受けて東亜同文会および東亜同文書院の運営にも関わった。彼は1922年3月に同文会副会長に就任し、26年5月から31年12月まで同文書院長を兼務している。
近衞は同文書院の院長に就任したが、上海での学校運営には副院長の岡上梁(元第五高等学校教頭)を当たらせた。院長としての近衞は、ほぼ毎年、日本で行われる新入生招見式に出席して訓示を述べ、欠席の場合でも訓示を代読させている。その内容は、書院の歴史を振り返りつつ時事問題にも触れながら、中国語や中国事情についてしっかり勉強するよう激励するというパターンが一般的であった。
1929年の訓示では学生たちに向かって、新たに入学したことを祝いつつ、土地狭小のために経済的に行き詰まりの状態にある日本にてとって、「広大無辺の天然資源を有し、又無限の購買力を有する支那と提携して行くと云ふことは、真に意義のある事柄」であると論じている。また、当時のナショナリズムの高揚に伴う排日的風潮の状況においてこそ、書院の使命が光を放つのだとして、「在学中良く其言語を学び其民情風俗を研究し、卒業後は常に支那人の為めに頼み甲斐ある親友となりて、彼の為めに又我が為めに尽すことがなければなりません」と述べ、日中の架け橋となるよう呼びかけている(『支那』第20巻第6号)。ここには、父親譲りのアジア主義的心情が表れている。
近衞は院長在任中、上海を2度訪問している。1度目は1926年10月17日から25日までで、夫人と津軽英麿の母を同伴した。2度目は30年5月16日から21日にかけてであり、この時は同文書院創立30周年記念式典と根津一元院長の銅像除幕式への参列のためであった。近衞の2度の上海訪問は、いずれも極めて短期間であったため、書院生たちとは親しく接する機会は持てなかった。近衞としては不本意であったことであろう。しかも、書院はこの後、学生運動などで混乱し、近衞も院長の職を辞任することになるのである。