2021年2月のミン・アウン・フライン司令官によるクーデター以来、ミャンマーは混乱を極めている。1988年の民主化指導者スー・チー氏らによる騒乱以来、軍政はたびたび政策を転換してきた。ビルマの独立に貢献した軍は、国民の信頼は揺るぎないと自負していた。
1990年の総選挙でも、自宅軟禁下にあるスー・チー氏が率いる民主政党NLDに負けることはないと確信していた。ところがNLDに大敗し、軍政は選挙結果を無視した。西側諸国が軍政を強く非難したため、スー・チー氏の自宅軟禁は一部緩和された。自宅前に集まる支持者に向けた塀越しの演説や、自宅内での西側記者の取材が初めて認められた。筆者も湖畔に建つコロニアル風の自宅で2度インタビューすることができた。
当時、学生による反政府デモは大学構内では許されていたため、筆者も校門越しに取材した(写真)。しかし取材中に顔を撮影され、撮影したVTR取材テープを兵士に没収された。
取材を通じて親しくなった穏健派の軍人に事情を話したところ、後日取材テープは無事返還された。軍内部でも穏健派と強硬派に分かれていることを実感した出来事だった。
90年代末になると、学生デモは構外でも見られるようになった。筆者が取材していると、軍が遠巻きに取り囲んでいるのが確認できた。多くの記者が撤退し、日本人記者は筆者を含め3名だけになった。突然、日本大使館の丸山市郎氏から「デモ現場は危険な状況になっている」との電話が入り、慌てて撤退した。後日、日本の有力紙の記者が兵士に殴られていたことを知り、丸山氏に深く感謝した。
2004年には穏健派のキン・ニュン首相が拘束され、取材テープ返還に尽力してくれた軍人も拘束された。軍政が一段と強硬姿勢へと傾いたと感じた。その後の総選挙では再びNLDが勝利し、スー・チー氏は国家顧問に就任。民主化が進み外資も流入、順調な経済成長が期待された。
しかし、選挙を繰り返しても軍は敗北し、西欧化が進むことで軍の存在基盤が揺らいでいると感じた強硬派のミン・アウン司令官は、軍事政権復活を狙ってクーデターを起こした。
非暴力による民主化を掲げてきたスー・チー氏は再び拘束され、反政府勢力の姿勢も変化した。武装した少数民族勢力と初めて協力関係を結び、国軍との武力衝突が各地で発生。国軍は苦戦を強いられた。
2025年8月、北京で開かれた戦勝80年の式典にミン・アウン司令官も出席し、習近平主席やプーチン大統領と会談した。民主化を求める国内世論と軍事的劣勢で追い込まれるなか、軍事政権にとって頼れるのは中国とロシアしかない、ということなのだろう。
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