ここで「SARSの教訓」について簡単に説明を加えておこう。SARSとはSevere acute respiratory syndrome の頭文字。わが国では重症急性呼吸器症候群と訳されている。SARSコロナウィルスによって引き起こされるウィルス性の呼吸器疾患。38度以上の高熱および咳、呼吸困難、息切れなどの症状が見られるほか、レントゲン検査で肺炎の症状を呈するという。
SARSの最初の患者は2002年12月中国南部の広東省省都の広州で発見された。当時省市当局とも全く公表しなかった。だがすでにさまざまなオンライン情報が流されていたという。ところが中国国内の感染拡大を横目で見ながらなぜか中国政府はおよそ10か月後の2003年10月まで事態を世界保健機関(WHO)に報告しなかった。この後れが初期対応の後れにつながったとして国際社会から厳しく批判されたのはいうまでもない。また中国国務院が同年4月記者会見を開いたが、席上当時の衛生部長張文康は「3月31日現在北京市の感染者は12例、うち死亡は3例に過ぎない」と述べ。さらに感染阻止はうまくいっていると繰り返した。そのうえ「中国では仕事も、生活も、観光も全て安心だ、マスクなどしてもしなくても大丈夫」と笑顔を交えて語っていた。
ところがテレビで記者会見を見ていた医師蒋彦永が疑問を抱いて北京市内の病院を調べた結果感染者が当時146人いたことがわかった。蒋医師は早速中国と香港のテレビ局に実情をメールで伝えたところ米紙『ウォールストリートジャーナル』と米週刊誌『タイム』がこれを報じ、国際社会が騒然となり、また中国当局のずさんでいい加減な態度に対する反感があらためて強まった当時の様子を今なお記憶に留めている読者も少なくないのではあるまいか。
こうしてSARSは中国、香港、台湾を中心にシンガポール、ベトナムなど中国南部周辺で猛威を振るった。世界保健機関(WHO)の統計によると2002年11月から2003年7月までのSARS 感染者数は29か国、地域で8096人、うち死亡774人に上った。このうち中国を見ると5327人、死亡349人である(香港、マカオ含まず)。中国の人たちにとっては忘れることのできない深刻な体験だったに違いない。あのときの記憶がいまよみがえったのである。
さてそれでは今回の新型肺炎の感染拡大に中国政府はどのように対応したのであろうか。前述のように武漢市の保健当局から原因不明の肺炎患者について報告があったのが2019年12月8日だった。だが中国政府は事態をすぐには発表しなかった。中国は12月31日WHOの駐中国代表処にこの原因不明の患者について報告したという。だが何故か公表しなかった。
その後中国当局は2020年1月20日になってようやく習近平さんの重要指示の形で新型肺炎の感染が拡大している事実を国民に初めて公表したのである。武漢からはじめての感染例が報告されてからすでに40日以上経過していた。この重要指示を報じた中国 国営通信社新華社電が冒頭明らかにしたようにこのときすでに中国国内の感染例は217件、日本、韓国各1件、タイ2件に感染が拡大していたのである。
重要指示は次のように述べていた。
「新型肺炎発生後、党中央、政府はこれを特に重視、習近平中国共産党総書記、国家主席、中央軍事委員会主席が重要指示を発表、最近湖北省武漢などで新型肺炎の感染者が相次いで発見されているが、特に重視し感染予防と感染拡大阻止に全力で取り組まなければならない。今まさにわが国は旧正月で広範にわたり人々の集団移動が見られるだけに感染予防と感染拡大阻止は特に重要である。各級党委員会、各級政府および関係部門は、全国人民の生命の安全と健康を最優先し、周到な対策を立て各分野で協力し予防感染拡大阻止活動を展開し、効果的な予防感染阻止対策を講じ感染拡大を断固抑制しなければならない。感染者の治療に全力をあげ病原菌とその感染原因を急ぎ解明し、病例の観察を強化し、治療手順のモデル化を図らなければならない。感染状況に関する情報は直ちに発表し、国際協力を強化しなければならない。世論工作を強化し関連する政策措置に関する宣伝解説を強化し社会全体の安定を守り人民大衆が安定し、和やかな旧正月を過ごすことができるようにしなければならない。」李克強首相の指示も付されていた。一見政府当局が本腰を入れて新型肺炎に取り組む力強い迫力ある発表のように見えるが、常識的に考えればすでに時機を失していたのである。「中国当局が積極的に行動を起こそうとした1月20日には新型肺炎はすでに恐るべき脅威になっていた。」と『ニューヨークタイムズ』は断じている。
中国は共産党の一党独裁政権で、党が全権力を独占している。習近平さんはそのトップとして全党全国に君臨している。しかも習さんはすべてを管理統制しなければ気がすまないタチらしく東西南北、天上天下、前後左右、縦横十文字全てを厳しく統制している。政治、経済、文化、映画、テレビ、オンライン情報などはいうまでもあるまい。だから何をどうするにしても習さんが顔を出さなければ始まらない。習さんが何も言わなければ、何もないのである。習さんが号令をかけると全てが動き出すという仕組みである。しかし必要最小限のことをするのが一番安全ということになっている。前に進みすぎても後ろに後れすぎてもいけないのである。
また習さんが何も言わないときには何もしないに越したことはない。出すぎたことをすると批判され袋叩きにあう危険がある。悪くすると降格されたり、解任されたりしかねない。くわばらくわばらといった状況である。こういう仕組みを築きあげたのがほかならぬ習さんなのだから自分がどうすればよいのか十分承知している。重大な政策や新構想を発表する時には党や政府の重要会議でながながと演説したり、民衆の前に姿を現して笑顔を振り撒いたりする。また今回のように重要指示を発表したりする。それを党や国のメディアを総動員して宣伝にこれ努める。そういう状況であることを知りながらこんな調子なのだから余計たちが悪い。
写真1:武漢脱出のチャンスを求めて待機する武漢の人たち(武漢空港)
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