第1回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

幼少期の近衞文麿
近衞文麿という名を知らない人はほとんどいないだろう。

近衞文麿
その評価も様々だ。すなわち、優柔不断で無責任、人気取りのポピュリストで失敗した政治家とするもの、教養主義で一貫していたとするもの、確固とした国家社会主義者であったと評価するものなどである。また、東京裁判を起源とする「自虐史観」の中で、近衞は不当に貶められているとして、彼の「名誉回復」に務める者もいる。
生い立ちと青年時代
近衞文麿は1891(明治24)年10月12日、東京市麹町区飯田町1丁目の自宅においてで誕生した。父は貴族院議長を務めた近衞篤麿、母は旧加賀藩主前田慶寧の娘衍子(さわこ)である。しかし、衍子は文麿誕生のわずか8日後、産褥熱のため世を去ってしまう。篤麿は翌年11月、前婦人の妹貞子(もとこ)と再婚し、武子、秀麿、直麿、忠麿の子供をもうけるが、文麿は実の母親の顔を知らないまま一生を送ることになる。
当時の近衞家は多くの使用人を抱えており、家令、家扶から老女、下男まで30人以上がいた。文麿は彼らから「若様」「若君」「若公」、後には「殿様」と呼ばれ、父に対しては「おもうさま」、母を「おたあさま」と呼んで育った。両親の呼称は古来の宮中および公家用語である。老女とは武家や公家の侍女の筆頭格の女性であるが、近衞家においては彼女らは文麿を育てるに当り、自分が気に入られることだけを競い合うばかりで、親でさえも養育がままならなかったほどだという。
そこで、先を案じた両親は、当時の著名な教育者である高山盈子の紹介で、1896年6月から小川すみを文麿の教育係にした。すみは千葉女子師範での教師経験を持つ聡明な女性で、老女たちの嫌がらせを受けながらも文麿が13歳の時まで家庭教師を務めた。
1893年5月、文麿は1歳半にして初めて参内している。同伴した母・貞子は「皇后様は御親類付き合いのようにして下された」と述べたという(矢部貞治『近衞文麿』)。皇室に最も近い家柄とあれば、特別扱いされることは当然であっただろう。文麿は99年3月にも参内したが、宮中で誰かから冗談交じりに「小関白」と呼ばれたが、本人は何の意味か分からなかったという。
文麿は近衞家で250年来の正室に生まれた嫡子とあって、過保護とも言えるほど大事に育てられた。娘の野口昭子は次のように語っている。
“学習院初等科に入学するまでは日常的に「御振袖」に身を包んで過ごしたが、帯の後ろに紐がついていて、お付きの者がそれを持って文麿がころばないようにと常に気を付けていたのだという。初等科に入ると自分で歩いて学校に通うことになるため、六歳の少年・文麿は毎日「お歩き」の練習というのをさせられた。お付きの者が背中の紐から手を話すと、文麿はそばの電信柱から次の電信柱まで一人で歩く、目標の電信柱に到達すると文麿少年はお付きの者を振り返る。するとお付きの者が拍手して誉め、では次の電信柱まで、という具合。電信柱一本ずつ距離を延ばしながら一人で歩くのに慣れるというわけだ(近衞忠大ほか『近衞家の太平洋戦争』)。”
また、文麿は顔を洗っても、誰かが拭いてくれるものと思っていたという。これも幼少期の過保護によるものだろう。この浮世離れした習慣は生涯続いたようで、その場面に遭遇した人は一様に驚いたということである。
だが、近衞家の生活は極めて質素だったようだ。食事はふだん一汁二菜で、汁はほとんど豆腐の澄まし汁で、おかずは煮魚か焼き魚と漬物だけだった。しかも、汁は長い廊下を運んでくるので冷たくなっていた。いつも中味は豆腐なので、子供たちは汁といえば豆腐のことだと思っていたという。
近衞家は1897年4月、麹町区七丁目に転居する。そこは、かつての京都の旧宅にちなんで桜木邸と称した。文麿はこの年の9月から学習院初等科に通うことになる。彼はその頃から聡明で、とりわけ文才に富んでおり、ちょっとした散歩や旅行に出かけた際には、すぐに見聞を綴り、その出来はなかなか見事だったという。この間、近衞家は日比谷の貴族院議長官舎などを経て、父の勤務先である学習院にほど近い目白の家に移っている。
1903年7月、文麿は学習院初等科を卒業し中等科に進んだ。しかし、翌年の元旦に父・篤麿が世を去ると、文麿は12歳にして襲爵して公爵となり近衞家の第29代当主(30代とする説もある)となった。ちなみに、篤麿は号をもって「霞山公」と称されることもある。文麿にも「虎山」という立派な号があるのだが、なぜか号をもって呼ばれた事例は見かけた覚えがない。
篤麿が他界してから近衞家を取り巻く状況は一変した。文麿は当時を回顧して次のように記している。
“父の在世中は、朝から晩まで色々の人が出入し、私なども子供ながらチヤホヤされていたものだ。が、父がいなくなってからは、まるで火が消えた様になり、それだけならまだしも、今まで父に政治上の意味で世話を受けた人などが掌を返えすように金を返えせと云って来る。ある金持の如きは、こちらが現金で返せぬので掛軸などをかたにすると、ニ度も三度もつきかえして来る様な始末であった。(『近衞文麿清談録』)”
このような状況の中で、近衞の中には次第に社会に対する反抗心が芽生えて行った。彼は中学から高等学校にかけての自分を、「西欧の奇激な文学を読み耽るひがみの多い憂鬱な青年であった」と述べている。
近衞が貞子が実母でないことを知ったのは中等科時代のことである。近衞は既にそれらしき話は聞いたことがあった。貞子を快く思わない老女の一人が、嫌がらせのつもりで彼にそのことを臭わせていたのだ。妹の武子は次のように書いている。「父の墓参にいつた時、並んでいる伯母(文麿の実母)の墓の後に廻り、『やはり本当だ』といつて涙ぐんでいたのを、ぼんやり記憶している。自分の母の忌日が誕生日より一週間遅れていることを、確かめたのではなかつたろうか」(矢部、前掲書)。このこともまた文麿の人間不信の一因となったのだが、おそらく近衞夫妻とすれば、文麿が子どもの間は実母の問題は伏せておくことが良いと考えていたのであろう。
近衞が学習院中等科で親しかった学友は石渡荘太郎である。彼は後に大蔵大臣、内閣書記官長などを歴任し、文麿の良きアドバイザーとなる人物である。彼らが親しくなった経緯は、両人の父の篤麿と敏一が留学先のドイツで知り合い、同じ頃に帰国して、荘太郎が10月9日、文麿が12日に生まれた関係もあり、両家は親しく付き合っていたことによる。荘太郎はもともとは府立一中に入るつもりで準備していたのだが、篤麿の強い勧めによって学習院に入学したのである。
石渡の回想によれば、近衞は「極めて善良な学生」で、「本当の何の落ち度もない学生」であった(『近衞文麿内閣関係者が語る諸家追憶録』)。近衞は英語その他の教科では優秀だったというが、器械体操や数学へ苦手だったようだ。当時の中等科の教師には学業評価に厳しい者がいたようで、入学時の生徒は80人ほどいたが、卒業した時は24人しかおらず、大抵みな落第していた。特に数学の教師は点数に厳しく、これが原因で何度も落第する者がいた。そうした中で、近衞は落第もせずに7番の成績で卒業したのだから、まともな部類にあったことは確かだろう。

新渡戸稲造
中等科時代には、学習院院長であった乃木希典の薫陶を受けた。石渡は「乃木は終始近衞のことを心配し、また近衞も乃木の指示には真面目に服していた」と記している。当時の近衞の日記には、乃木に付いての記述がいくつか見られる。院長就任前の1906年1月9日には、「乃木対象ステッセルの乗りし鎌倉丸にて凱旋し、十四日乃ち旅順開城時に帝都に入ると、大将の行動何処までも詩的なり」とあり、その文章は英雄の帰還を祝うかのような心情が溢れている。翌年の院長就任後は、尊敬の気持ちもさらに高まったことであろう。
1908年7月、近衞は赤坂に乃木を訪ねたところ、乃木は彼に山鹿素行の『中朝事実』を与えている。素行はこの書で、易姓革命で臣下が君主を弑する中国と違い、万世一系のもとで儒教の教えを実践しているのは日本であって、我が国こそが「中朝(中華)」と称するにふさわしいと主張している。

乃木希典
なお、面会の日に、乃木は近衞に将来の志望について懇篤な注意を与えたという。おそらく、それは一高進学についてであったであろう。この時期、近衞は進学について多方面に相談していたのである。
当時の日記には政治に関することも書かれている。1906年1月6日の条には、第一次西園寺内閣の組閣を報じた号外が出たとして、「稍意外なるは松岡康毅氏の入閣位なり」とある。また、同年3月19日には「牧野文相に呈する論文草稿」を書いている。さらには、日時は不明だが伊藤博文にも意見書を書いて、実際に渡したことがあるとも伝えられている(矢部、前掲書)。どのような内容だったのかは分からないが、近衞は中学生の割には政治的意識は高かったと見ることができるであろう。
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