筆者は今から9年前になる2010年から、中国の対外友好協力機関である「中日友好協会」が受け入れ窓口となって招請するジャーナリスト訪中プログラムに参加し、これまで5回の中国現地取材と中国の学者・研究者らとの意見交換という得難い経験を重ねてきた。この日本人ジャーナリスト訪中プログラムが始まったのは筆者が初参加したときより6年前の2004年だが、当時は小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題などいわゆる日中両国の歴史認識をめぐって外交関係がぎくしゃくしており、そうした立場の隔たりといった溝を埋める取り組みの一環として、日本人ジャーナリストの現地視察と中国研究機関の学者らとの意見交換をスタートさせたと聞いている。
日本人ジャーナリスト訪中プログラムの実現に尽力されたのが、唐家せん(字解=王へんに旋の字)元中国外相が会長を務める中日友好協会と太いパイプを持つ南村志郎、そして2004年の第1回訪中から訪問団団長を務める川村範行の両氏だ。南村氏は元業界紙記者、元専門商社マンなど多彩な経歴をお持ちだが、1950年代から60年近くにわたり民間の立場から日中友好活動に携わってきた戦後の日中交流史の言わば「生き証人」のような方である。南村氏が信頼を寄せる川村氏は名古屋に本社がある中日新聞社(東京新聞)の上海支局長や論説委員を歴任した生粋のジャーナリストで、同社を退社後は地元の私立大学に籍を置き、日中関係論と現代中国論の研究に従事されている。
日本人ジャーナリスト代表団の訪中は、中断の年はあったものの、ほぼ年に1回のペースで行われているが、10人前後で構成する一行の訪中の折には、北京にも拠点がある南村氏と懇談し、その時々の中国の国内情勢や日中関係についての中国側の分析などについて興味深い話を聞くのが恒例となっている。南村氏は、日中両国が国交もなかった時代から長く、混乱した文化大革命の時期を含む中国の現地情勢や変転する日中関係の動向を表裏合わせてウオッチしてきただけに、独自の人脈から入手した情報を含め、懇談の場で聞くさまざまな分析や見解には説得力があると敬意を払うと同時に感謝の念も強まった。さらに、北京あるいは東京で懇談の回数を重ねるにつれ、黒衣役に徹してきた南村氏の経験や発言をその場限りにとどめておくのはもったいないとも思うようになっていた。
筆者以上に南村氏とは長くかつ深いお付き合いがある川村氏も同じ思いを抱いたのであろう。日中両国の交流活動に半生を捧げた南村氏の貴重な経験、証言を後世にも伝えていこうという趣旨で最近、川村氏と訪中団の常連メンバーである元放送記者の西村秀樹氏の二人が編者となって南村氏の「聞き語り」が一冊の本として結実した。「日中外交の黒衣六十年―三木親書を託された日本人の回想録」(著者・南村志郎、発行者・ゆいぽおと、2018年)は、「日中首脳外交を仲介して」「私が体験した日中民間交流」「余生を日中の相互理解にかける」の3部構成となっており、一読すれば、戦後の日中関係の過去、現在、未来を一望できるのではないか。そして、そこから歴史の教訓というものも汲み取ることができるはずだ。
新刊書の帯には、「加害者が過去のことを忘れてはいけない。被害者のほうができるだけ過去のことを忘れようとする。こういう関係になったときに、初めて日中の花が咲く」という故周恩来首相の言葉が紹介されている。日中平和友好条約の発効から40年がすぎ、両国を取り巻くアジアの国際環境は様変わりし、日中関係も大きな節目を迎えているが、南村氏が回想録で特に記録にとどめた名宰相の遺言とも言うべき言葉については、現下の難しい日中関係の在り方、今後を考える際の大きなヒントとして改めて捉え直したい。