仏領インドシナにおける最高の美術学校だったエコール・デ・ボザール・インドシナ出身の建築家にHuynh Tan Phat(フイン・タン・ファット)という人物がいる。彼は1938年に学校を主席で卒業し、ハノイでの学生生活を終えると南部に戻った。そしてサイゴン(現在のホーチミン市)で2年間ほどフランス人建築家の事務所で働いたのち、1940年にベトナムではじめてといわれる民間の設計事務所を開設する。
こんな経歴を聞くと独立後も随分たくさんの作品をベトナムに残したのだろうと思う。「日本初の建築家」で思いつくのが東京駅を設計した辰野金吾や赤坂離宮を設計した片山東熊などを思い浮かべる。国の建築黎明期において活躍し、大規模な公共建築を次々と手がける、そんな建築家像を想像する。しかしHuynh Tan Phatの名前をインターネットで検索しても建築作品のことはほとんど出てこない。それどころか、彼が建築家であった記事もほとんど見つけることはできない。彼のことを紹介する記事のほとんどが建築家としてではなく、政治家・革命家としてである。
Phat氏は1913年、ベトナム南部のミトー(現在のベンチェ省)で生まれた。20歳のとき(1933年)から5年間、ハノイのエコール・デ・ボザール・インドシナで建築を勉強している間も政治的な活動を行なっていた。彼が建築家として独立したのが1940年、世界は第二次大戦に突入していた。独立した同じ年に日本軍は北部に進駐し、ベトナム独立同盟会(ベトミン)が結成された。南部では共産党による蜂起にたいして1942年に日本軍が南方軍総司令部をサイゴンに設置した。ベトナム国内ではナショナリズム運動が成長してこの時期にPhat氏はサイゴン中心部の博覧会施設のコンペティションで1位になっている。クライアントも多かったようで、この時期に建設された住宅がサイゴンにいくつか残っているが、ほとんどのものが原型を留めない。(写真1)相続のためか半分だけが取り残された形になっていたり、大規模に改装されていて、今ではファット氏のものとは判別できない。あるいは戦災により失われたものもあるかもしれない。「建築家としてのHuynh Tan Phat」がのちに語り継がれていれば、もう少し保存がされていたかもしれないと思うと残念である。
この時期にPhat氏が設計した建築で、現在でもよい状態で残されているものがホーチミン市に今もひとつだけある。その建物は70年ほど前に日本が買い取って、戦後もそのまま日本総領事公邸として利用されている住宅建築だ。(写真2)外観も内装も何度も改築が行われているものの全体的な建物のプランは建設当時の状態を残している。様式としては当時の流行のアール・デコ風であるが、シンメントリーを少し崩していたり、各開口部のデザインが違ったりと、若い時期に設計した野心が溢れる作品にも感じられる。エントランスには熱帯地域特有の日除と装飾を兼ねた格子にベトナム風の彫刻が嵌め込まれている。当時のベトナム独立運動への意思の現れなのかもしれない。窓には鉄格子が取り付けられているが、独特のデザインが施されている。Phat氏の原設計によるものかの確認が難しいが、筆者が作成したそのデザイン・スケッチを掲載しておきたい。(写真3)優秀な若手建築家であったPhat氏の作品から民族独立への強い希求とともに新しい建築への情熱も感じられる興趣の尽きない建築である。
写真1枚目 BHTQ House
写真2枚目 日本総領事公邸
写真3枚目 日本総領事公邸 窓鉄格子デザイン
写真4枚目 日本総領事公邸 ホーチミン市、ベトナム
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