昨年12月、近衛文麿の別邸・荻外荘が60余年ぶりに修復・再現され、一般公開されている。かなりの関心を惹いているらしく、新聞によれば公開から1ヵ月で入場者は1万人を超えたということだ。
文麿の本宅は東京の目白にあった。しかし、文麿が生まれたのは両親が一時住んでいた飯田町の家だ。生まれたのは1891(明治24)年10月12日。一家はその後、麹町七丁目(京都の旧宅にちなんで桜木邸と称した)、貴族院議長官舎などを経て父・篤麿の勤務先である学習院にほど近い目白の家に移った。
文麿は関白家の長子であり、正室に生まれた世継ぎでもあって特別大事にされた。衣類なども特別なものが用いられ、3歳までは白無垢で、7歳の頃まで振り袖を着せられ、おつきの者が後ろから帯を持って歩いた。学校へ入学する時になって、一人で歩く練習させられたが、初めは振り返り振り返り歩いたという。文麿は大勢の家職や老女たちにかしずかれて育ったのだ。
文麿の幼少時のエピソードを、矢部貞治の大著『近衛文麿』(伝記編纂刊行会、1952年)からいくつか拾っておこう。著者が文麿の母・貞子から聞いた話だという。
文麿は小さい時は頓知のきいた子どもで、ある日など抱かれたまま粗相をしたが、自分で「これは、これは」と言って人を笑わせたという。また、4、5際の頃とされるが、父が朝湯に入っていたら、来訪者の名刺を持って、「おもうさま、ポンタローが参りました」と言った。橋本久太郎という名前のうち、自分が知っている字(本・太・郎)だけを読んだわけだ。父も驚いたことだろう。またある時、篤麿が靖国神社に参拝のため大礼服で出かけようとすると、いきなり「猿芝居をご覧になるのですか」と言って笑わせたという。どこからそのような考えが浮かぶのか、普通の人には理解できないところだ。
幼少から凝り性で、遊びや玩具にもそれが出ていた。一時は鶏が好きで、尾長鶏が一羽いたのでとても気に入り、雨が降る日も傘をさしてじっと見ていたという。馬車の玩具もたくさん持っていて、馬車遊びをよくやったが、どういうつもりか自分はいつも馭者になった。少し後には汽車に熱中し、玩具もたくさん集めたが、とりわけ機関車を好んで、それについての知識も相当であったらしい。よく自宅から目白駅の線路の傍まで汽車を見に行き、人がピカピカ光るきれいな機関車を褒めたりするとこれに反論して、真っ黒で大きいのが良いのだと言って、色々と説明したということだ。文麿は今日で言う「鉄ちゃん」だったのだ。
篤麿が他界したのは1904(明治37)年1月のことで、文麿が13歳の時だった。父の入棺の折、母は子どもたちを集め文麿のことを、「これからはお兄さまで、またおもうさまの代りでもあるから、よく仰しやることを聞かねばなりません」と言い聞かせたところ、弟の直麿が「おもうさま」といって文麿の首に抱きついたという。この時から文麿は近衛家第29代(30代とする説もある)当主となったのだ。
文麿は学習院初等科・中等科を卒業し、第一高等学校を経て京都帝国大学法科大学に学んだ。在学中に西園寺公望の京都別邸を訪ねたことがある。この時、西園寺は文麿を閣下と呼ぶので、何かむず痒いような気がして、人を馬鹿にしているのではないかと思えたと述べている。首相を務めた人物であっても、五摂家筆頭の当主に対しては「閣下」と呼ぶのが常だったのだろう。
閣下という呼称については面白い話がある。弟の秀麿は回想録『風雪夜話』の中で、文麿の学生時代のことを次のように記している。
京都帝大在学中の文麿は、ある夏に有馬温泉に一軒家を借りて避暑をしたことがあり、弟たちも誘われてそこに遊んだ。着いて間もなくのこと、警察署員が家の前にやって来て、「この一角に京都からコノエ公爵カッカが見えているはずなのだが知らんかね」と問われた。文麿のことだと思ったが、顔を見合わせた弟たちは何とも言えぬおかしさがこみ上げてきて、「カッカなんてこの辺で聞いたこともないな」と言って追い返した。
後で食事の時に何気なくその話をしたら、文麿はバツが悪そうに、「それは俺のことだろう」とポツリと言った。喜んだのは弟たちで、それからは文麿に「カッカ、起きろ」、「おい、ご飯だよ。カッカ」などと言ってからかった。うっとうしくなった文麿は弟たちを早々に東京に帰したのだが、彼らは東京に帰ってからも家中で「カッカ」の宣伝に務めた。その後、誰ともなしに「カッカ」とはドイツ語で「うんこ」のことだということを聞かされたのだった。近衛家当主は「うんこ」呼ばわりされていたのだ。
さて、1924(大正13)年7月6日のことだが、父・篤麿の記念碑が終焉の地である目白に建てられた。この時、文麿は次のような挨拶を行っている。
「この度諸君のご尽力により、父のために記念碑を建設せらるる運びと相成りましたことは、私の感謝に堪えざる所であります。父は生前諸君の一方ならざる御厚誼と御援助とを辱(かたじけ)のうしたのでありますが、不幸短命にして明治三十七年に此の地―この記念碑の建つているこの場所―において、臨終を遂げたのであります。
爾来二十年は夢の如く過ぎました。然しながら諸君の父に対する御友情は、この二十年の久しき歳月を経て少しも渝(かわ)る事なく、今回かくの如き立派なる記念碑を、その終焉の地に設けらるるに至つたのであります。私は諸君のこの厚き御友情に対して感謝の外ありません。友は離れ易いものである。友情は動もすれば渝り易きものである。去る者は日に疎しという諺もあるこの世の中において、私は諸君が二十年渝らざる美しき友情の印として、この記念碑の下に永く故人を偲びたいと思います」。
これはごく普通の挨拶に見えるが、実は一部の人に対する皮肉を込めたものであった。というのは、その場に集まった人たちの中には、「渝らざる美しき友情」を持ち続けなかった人もいたからだ。
篤麿の死によって、家族が莫大な借金を背負うこととなったことはよく知られている。近衛家には債鬼が押し寄せた。それまで親しげに出入りしていた人の中にも、手のひらを返すような態度を取る人も出た。文麿は13歳にして人間の浅ましさを知るところとなっていた。ところが、文麿が政界に入り脚光を浴びるようになると、また友人のような顔をして戻って来る人もあった。文麿はそのような人たちを許せなかったのだ。この挨拶を聞いた母は後に、「いいことを言ってくれた」と語ったという。文麿の意地のようなものを感じたのだろう。
これまで20回以上にわたり近衞篤麿にまつわるエピソードを紹介してきたが、そろそろ話題も尽きつつある。今回のテーマを機に文麿へと世代交代し、新たなコラム・シリーズとして出発できればと思っている。
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