第21回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

民族のこと二題
近衞篤麿がオーストリアに滞在していた頃、「一種異様の人民」を目撃したことがあり、帰国後、そのことを基に「欧州無籍無住居ノ人民」と題する短編の文章を著している。それによれば、その「異様の人民」とは「常に車中を家とし、何(いず)こを目的とするの定めなく、唯だ思ふ所に車を馳せ行く者」たちであった。ドイツに移ってからは目にすることは少なくなったが、近衞は彼らが一体何者であるのかについて、しばらく疑問に思っていたという。
そこである日、近衞は大学の某教授にこの人たちのことについて質問してみた。教授によれば、彼らはドイツ語でツィゴイナー(Zigeuner)という人たちであるが、どのような人種であるかは不明で、アジアからやって来たという説もあれば、エジプトから流れて来たという説もあるということだった。近衞は教授の説明が興味深かったのだろう、続けて次のように記している。
「常に車を家とし、車中に一切の家具を載せ、移居心のまゝなり。又一の水辺に平原あるを見れば、皆之に集て天幕を張り暫時にして一村落を為す。之より皆市に出でゝ食を贖い帰り一の大鍋を以て之を煮、衆集て共に食ふ。彼等元より悪食を忌まざれば、鍋中蜥蜴蚯蚓をも共に投じて、食ひあけば歌ひ舞ひ、歓を尽して共に夜を徹す。[中略]而して明朝に至れば各車に駕して去り、其の行処を知ず。実に異様の人民と云ふべし」。
今日の私たちであれば、この文章を見てすぐに彼らがジプシーだと気づく(今日では彼らは「ロマ」と呼ばれることが多いが、ここではジプシーの名称で通す)。現代では定住化も進んでいるが、近衞がオーストリアにいた当時は、ジプシーの移動が頻繁に見られた時代だったのである。
翻って、近衞がこれほどジプシーに興味を抱いたということは、当時の日本では彼らに関する情報が少なかったことを意味しているかのようである。インターネットのサイトによれば、1901年の新聞に彼らが「西洋穢多」として記述された例があるというから、彼らの情報が皆無だったわけではないことが分かる。しかし、近衞の文章でジプシーという言葉が一度も使われていないということは、当時においては彼らを特定する名称すらなかったことを示している。近衞が彼らを奇異な存在として関心を持ったことは、当時においては自然なことであったのである。
さて、近衞にとってジプシーは単なる知的関心事であったのだが、ヨーロッパ滞在時の彼はユダヤ人に対して偏見を持っていたと思わせる記述がある。近衞ファンとってはあまり好ましい話題ではないが、彼の全体像を知るためにも記しておくことにする。そのことは、前回・前々回で述べた1886年7~8月の南ドイツ漫遊旅行中のある日、近衞がユダヤ人と思しき人物と居合わせた時の会話に現れている。
それはニーダーヴァルトの丘に登る列車の中に於てであった。一人の旅行客と座席が向かい合わせになったのだが、近衞はその人物が「一見其猶太(ユダヤ)教の人たるを知」り、顔を背けて彼に話しかけさせないようにした。なぜなら、彼は「猶太教の人は、欧州人の中に最も嫌忌せらるゝ者にして、其卑劣なること言語に絶するもの」だと考えていたからである。ここで「一見云々」とあるのは、おそらく彼らの独特の髪型や身なりなどから判断したのだろう。それにしても、近衞は露骨な態度を取ったものである。
そうとは知らずに先方は近衞に親しげに話しかけてきた。まず中国人かと聞かれたが、外国ではよくある間違いなので日本人だと答えて受け流した。すると今度は、何処に住んでいるのか、ドイツに来て何年になるのか、何のために来たのかなど次から次へと質問されるはめになった。その人は、よほど近衞に関心を持ったようだ。
近衞はうっとうしく感じたので手短に答えて遣り過ごそうとしたのだが、その人は滞在年数の割にはドイツ語が上手だと彼を褒め始めた。近衞はこれを露骨なお世辞だと捉え、怒りを込めて次のように述べた。「汝人に媚ふること甚だし。吾自ら談話中に幾多の失誤を看出すことを得。然るも猶独逸(語)を能くすると云ふか」。すると、相手は自分で間違えたことが分かるのだから、それは立派なことだと答えてくる始末だった。近衞の怒りはさらに増すことになった。
そして、その人が日本語はドイツ語より劣っていると言うに至り、近衞はプライドを傷つけられた思いがして、「ドイツ語こそ野卑だ」言い返してやろうとも考えた。しかし、それも無駄なことかと思って堪え、冷笑して「何人(なんびと)も自国の短所には目の届かぬ者なり」と言ってやると、さすがに先方も不機嫌になったのか黙り込んだという。近衞は自分が勝ったかのような書き振りである。
しかし近衞の文章を読む限り、この時のユダヤ人に悪意があったとは思えない。むしろ、近衞が一方的に相手を嫌っている様子が窺えるだけである。彼は意味のない怒りを相手にぶつけているに過ぎないのだ。あるいは、近衞は相手がアジア人を見下しているかのような印象を持ったのかもしれない。しかし仮にそうだとしても、彼のユダヤ人への偏見がすべての前提になっていることは確かだと言えよう。
それでは、なぜ近衞はユダヤ人に偏見を抱くようになったのだろうか。そもそも、日本人はユダヤ人と接触する機会は少なく、しかも彼らについての情報(例えば、世界支配を目指すという陰謀論の類)も20世紀に入るまで伝わっておらず、日本には彼らへの偏見や差別意識はほとんどなかったと言われている。したがって、近衞も国内にいた時はおそらく何ら特別な意識も持っていなかったと推測される。
しかし、オーストリアやドイツはそうではなかった。19世紀後半の両国では、ユダヤ人は純粋なアーリア人の血を汚す存在と見なされており、政治家たちはそうした反ユダヤ主義を利用して有権者の支持を獲得しようとしていたのである。それまで何の知識も持たない近衞が、そうした環境に身を置くことによって周囲から影響を受け、反ユダヤになびいたことは容易に想像されるところである。
管見の限りでは、近衞がユダヤ人差別を行っているのは、この時の事例だけである。彼の差別意識が一時的なものであったことを信じたい。